第2回 バブルにまみれた大手証券会社

経済誌記者として証券業界を担当したのは1988年。日経平均株価が最高値に向かって鰻上りだったバブル真っ只中のことである。兜町の高級鰻屋、喜代川の個室は連日予約で満杯。株屋の世界には「鰻上り」の験担ぎがあって、昼めしも夜めしもウナギという証券マンが珍しくなかった。

野村證券がトヨタ自動車を抜いて経常利益日本一になった時期でもあり、証券会社は飛ぶ鳥を落とす勢いだった。大和証券のドンと呼ばれた土井定包社長(故人)から、「君はゴルフをやるのかい?」と訊かれたことがある。こちとら入社2年めのペエペエだ。やったことなどあるわけがない。すると、「じゃあ小金井カントリーで筆おろししようか」という。天下の小金井で筆おろしなんて聞いたこともない。傍若無人もいいところだ。傍らに控えていた広報部長がさすがに慌てて、「あ、社長。彼はゴルフには興味ないそうですから」と止めに入った。

接待ゴルフ華やかなりし時代である。証券会社の役員には「煩悩そのものだよ」とうそぶく豪の者もいた。そのココロは年間108回プレーしたというもの。除夜の鐘に引っ掛けて「煩悩」なのである。社長に誘われるくらいだから、挨拶代わりに「ゴルフやりましょう」と持ちかけられることは日常茶飯事。おかげで、今に至るまでゴルフは1回もやったことがない。野村、大和、日興、山一の大手4社を相手に回してプレーに興じようものなら、とてもじゃないが休日だけでは足りない。できません、と言ってお茶を濁しているうち、機会を逸してしまった。それくらいゴルフ接待は激烈だった。

ゴルフとくれば銀座のことも書かずばなるまい。なにしろ手元にカネが唸っている。銀座のクラブ通いは「月月火水木金金」だ。山一証券の役員と呑んでいて、河岸を変えようかという話になった。その頃は3~4軒のハシゴは当たり前。22時、23時でも銀座のクラブは満員ってことがザラにあった。で、某高級店の真ん前で山一と大和の役員(偶々こちらも顔見知りだった)が鉢合わせ。俺が先だ、いやこっちが先だ。という言い争いが始まり、挙句の果てに殴り合いになった。まことに馬鹿馬鹿しい話ではあるが、当人達は大真面目に会社の看板を賭けてケンカしているのだから、もう何も言えません。

新宿には「ノーパンしゃぶしゃぶ」なんて店もあって、ここも銀行、証券会社、生命保険会社で賑わっていた。接待相手は言わずと知れた大蔵省の役人で、店内を見渡せばみんな知った顔ばかり。女の子が脱いだパンティをかぶって盛り上がるエリート役人の弛みきったアホ面はけだし見物ではあった。それにしても、女の子を愛でながら肉を喰らうなんて、どこの誰が考えついたのか。天才的なひらめきだ。

まだご健在でいらっしゃるので、あえて名前は伏せるが、当時のバブル相場を牽引する野村軍団の総帥がいた。初めてお会いしたときからタダモノではないオーラが漂っていましたね。それというのも、役員室に入ったら椅子にそっくり返って、足下に女性秘書を跪かせているのである。もしかすると不適切な行為をしているのではないか。来てはいけないタイミングに来てしまったのではないか(もっとも先方に指定された時間ピッタリではあったが)。と、回れ右をしようとした矢先、役員氏が大声で「いいんだいいんだ。いらっしゃい」。何をやってるんですかと問えば、水虫のクスリを塗ってもらっていたのだという。ほんと、今ならセクハラ、パワハラで一巻の終わりだろう。

野村が「ノルマ証券」と呼ばれていたくらい、ノルマ達成競争は過酷だった。ヒューマニティなんてクソくらえ。ペロ(注文伝票)の数で人格さえも問われる。売買注文を獲得するためには、なりふり構ってはいられない。まとまった買い注文を取るのに手っ取り早いのは、各地の地方銀行や有力企業を押さえることだ。営業マンは新規公開株など値上がり確実な玉(ぎょく)を地銀の役員連中に嵌め込み、個人的に儲けさせることで雁字搦めにした。地銀の世界では「証券会社と付き合えば家一軒建つ」と言われ、どろどろの蜜月関係が続いた。

89年12月29日、日経平均株価は3万8915円の最高値をつけたが、翌年明けからは暴落の一途をたどる。右肩上がりの神話を信じた証券会社は「利回り保証」までして事業会社の資金運用を請け負っていたが、この急落で大穴をあけてしまい、損失補てんを余儀なくされた。91年に損失補てんの実態が露呈し、野村の会長・社長が辞任に追い込まれるなどして証券業界の我が世の春は終わりを告げる。その後、山一が自主廃業、日興は三井住友銀行の軍門に下り、大手4社体制は完全に崩壊。証券業界は銀行系、外資系が入り乱れる群雄割拠の時代に突入した。

今は昔の話である。あの頃はよかったというつもりはないが、記者として駆け出しの時代でもあり、懐かしい思い出は絶えない。副社長や専務、常務といったお偉方から午前中に呼ばれ、前場が引ける(午前11時)と同時に鰻屋・寿司屋に飛び込み、午後の予定はすべてキャンセルして、大引け(午後3時)まで延々と呑み続けるということもしばしばだった。そんなサムライのほとんどが今ではこの世を去っている。大酒飲みでヘビースモーカーでノルマに追いまくられ、となれば長生きできる道理もない。もう少し待っててくださいね、俺もじきそっちに行きますから。心ゆくまで呑みましょう。