第5回 ゴーストライターから始まったお付き合い。四半世紀近い記者生活の「恩人」を偲んで

北海道拓殖銀行、山一証券の破綻で火がついた金融危機の続きを書き連ねるつもりでいたのだけれど、「山一」に関しては忘れちゃいけないことがある。なので、今回はゆるりと道草を喰います。

「ちょっとお願いがあるんだけど、いいかな?」

当時よく取材させてもらっていた山一証券の取締役に声をかけられたのが、石原仁さんと出会うきっかけだった。1988年だったか89年だったか。

「石原がね、困っているんだ。社内報に何か書けと言われて安請け合いしたのはいいんだけれど、何も思い浮かばないんだって。代筆してくれないかな」

そのころ常務取締役だった石原さんは山一の海外部門を仕切っていた。ロンドン、ニューヨークの現地法人社長を歴任し、「国際派」として内外に広く知られており、駆け出し記者としてお近づきになれるものなら願ったり叶ったりの名物男である。

社内報には「石原仁」の署名で掲載されるのだから、手抜きはできない。ザッと話をしてみて、「食べること」に人並み以上の興味があるらしいと知れた。そこで、「仕事柄、国内外を問わずいろいろな美味を味わってきたが、ポルトガルの淋しい海辺で売っていたイワシに勝るものはこれまでになかった。焼きたてに塩を振りレモンを絞って貪るようにかじりつく。文句なしにうまい」とやって、ついでに安易な食べ歩きブームをちょろりと皮肉る。そんな内容にまとめた。思えば、これが初めてのゴーストライター経験でもある。山一の社内報、まだどこかに残っているのかな。あれば、怖いもの見たさで、ちょっと読んでみたい気もする。

後日、石原さんから会食のお誘いがあった。社内報に対する反響は上々。「”ほんとに石原さんが書いたの?”と言われたからさ、”俺も捨てたもんじゃないだろ”って答えといたよ」と笑っていた。背丈はそれほど高くないけれど、歌舞伎役者のような苦みばしったいい男で、笑うと低音の魅力と相まってちょっとした凄みがにじみ出る。

「あんたのおかげだよ、本当にありがとう。助かった」と頭を下げられ、帰り際に茶封筒を握らせてきた。

「これね、うち(山一)が協賛してるバレエのチケット。御礼です」

自宅に帰って封筒を開けたら、チケットのほかに1万円札が5枚入っていた。この手の謝礼は一切受け取らないことにしていたのだが、これは素直に頂戴することに決めた。石原さんは無邪気に喜んでいたし、現金が入っていると分かれば、こいつ(筆者)は受け取らないかもしれないな、という配慮が何となくうれしかったからでもある。

それからというものは、会えば必ず酒になった。石原さんは筆者の親父と同い年(1935年生まれ)で、石原さんにも筆者と同い年(1964年生まれ)の息子さんがいる。でも、付き合えば付き合うほど、親父ではなく「兄貴」のように感じられた。

山一は東大出身・企画室閥が本流であり、早大出身、海外畑の石原さんはいわば傍流である。傍流でありながら、社内に彼を慕う子分は多く、テレビドラマをもじって「石原軍団」と呼ばれていた。部下の面倒見がよかったもんなあ。

91年に筆者が結婚したときは、夫婦同伴の食事に誘っていただいたものだ。

「うちのかみさんがカニ好きでさ、いい店知らない? あんたも奥さん連れといでよ。結婚の御祝いだ」

勘定の段になって、石原さんが山一の名刺を出し、「請求書は会社に送ってくれ」と言った。ところが、店主が「現金払い以外は受け付けない」と言い張る。「山一は危ない」という風評がすでに伝わっていたのだろう。掛け売りお断わり。で、奥さんから現金を借りて、20万円近い勘定を済ませた石原さん。「あんたも大変な店を紹介してくれるねぇ」と苦笑していた。

石原さんの交友は実に幅広く、サシで呑むだけでなく、ここには書ききれないほど数多くのおえらいさんとの会食に誘っていただいたものだ。ニューヨーク駐在時代のつながりで御手洗冨士夫・キヤノン社長、都立西高出身者の縁で葛西敬之・JR東海会長、佐藤安弘・キリンビール社長、東大演劇部の旧友である岡本和也・東京三菱銀行副頭取などなど(社名・肩書はいずれも当時)。石原さんを通じてつながった人脈は、今でも筆者の財産であり続けている。

1997年、日本経済新聞が「山一証券、自主廃業へ」のスクープ記事を配信した当日は、副社長として遠くスイスに飛んでいた。事実上の身売りではあっても、山一の名前だけは残したい。と現地金融機関との提携交渉に臨んでいたのである。このあたりの事情は前回にも記したが、異国の空の下で自主廃業のニュースを知らされる羽目になった無念はいかばかりであっただろうか。

山一破綻の原因となった「飛ばし」(損失隠し)に関わった疑いがあるとして、石原さんも検察の取り調べを受けることになる。

「石原さんが”飛ばし”の後始末を相談する極秘会議に出ていた、とあなたの部下が言っている」と検察に揺さぶられ、「そいつがそう言ってるんなら出てたんでしょう。俺には覚えのないことだが」と言い切った。この点については部下の事実誤認だったことが後に明らかとなり、取り調べにあたった検事が、石原さんの態度にたいそう感心したという。「部下の名前も訊かないで認めちゃうんだから。大した度胸だよ」

その後、肺がんにかかり、外科手術を受けた。抗癌剤治療も続き、たっぷりとしたロマンスグレーがまばらになってしまい、そんな姿を見られたくはないだろうな、と思って遠慮をしていたら、ある日のこと寿司屋に誘われた。

「医者にさ、あんた肺がんになるよ。ってずっと脅かされてたんだけど、もうなっちゃったもんな。心置きなく吸えるよ」

階段の昇り降りすら苦しそうな様子だったが、本当に美味そうにタバコを燻らせていた横顔を今でもはっきり思い出すことができる。上等な生地で仕立てた薄いグレーのスーツ、おしゃれなクレリックシャツ(襟が白色、身頃はライトブルー)に濃い青色無地のネクタイをキリッと締めた石原さんは、病身ではあっても常と変わらずダンディそのもので、とても格好よく映った。

おそらく、それが最後の会食だったのだと思う。訃報が届いたのは、筆者がたまたま海外に滞在していたときのことである。共通の知り合いからの電話で石原さんの死を知った。その日が告別式で、「おまえ、仁さんにあれだけ世話になっておいて、なんで顔も出さないんだよ」と詰られたが、トンボ返りしても時すでに遅しであった。

「いいよいいよ、無理して葬式なんか来なくても。あんたの柄じゃないよ」

筆者が葬式嫌いだと知っていた石原さんの声が、どこからか聞こえてきたような気がしてならなかった。

四半世紀近い記者生活を通じて、最もかわいがって頂いた「兄貴」である。他ではなかなか書きにくいことなので、だからこそ石原さんの思い出に関しては、一度は触れておきたかった。次回からは再び金融危機の内幕に話を戻します。と言いながら、またぞろ脱線するかもしれないけどね。(了)