最初に断っておくが、私は現在進行形のプロレスファンではない。アントニオ猪木の全盛期、タイガーマスクが大人気だった時期に育ったので、当時のプロレスについてはよく覚えているが、最後に後楽園ホールに行ったのは20年前だ。だから、本作『2011年の棚橋弘至と中邑真輔』が発売されたときは、特に興味を惹かれたわけではなかった。

しかし、ある雑誌で本書の著者・柳澤健さんを取材することなり、一気にぐっと興味を持った。実は、この本は、プロレスファンでなくとも十分楽しめる本なのだ。

著者は’07年に処女作『1976年のアントニオ猪木』を発表し、その後『1985年のクラッシュギャルズ』『1964年のジャイアント馬場』『1984年のUWF』といったプロレスに関する作品を次々と刊行してきた。しかし今回の本は、「売れている書店がいままで全然違う」そうで、「読者が違う」ことを痛感したという。現在の新日本プロレスは、かつての昭和のプロレスファンとは関係なく、新たな若いファンたちが支えている、というのだ。

となれば、なおさらお茶の間でゴールデンタイムのプロレス中継を楽しんだオールドファンはより楽しめないのではないか、と思うかもしれないが、そんなことはない。著者の言葉を借りれば、本書は「ノンフィクションにおける池井戸潤作品みたいな感じ」であり、「古い因習にしばられた町工場を、若い社員たちが再生するといったストーリー」に似ている。しかも実話だから、思わず胸が熱くなり、誰もが楽しめるのだ。

棚橋弘至選手が属する新日本プロレスの「因習」とは、「プロレスこそは最強の格闘技」と公言して絶大な人気を得てきた、アントニオ猪木の「ストロングスタイル」だ。しかし、棚橋選手は、2000年代に入って総合格闘技の興隆とともにプロレス人気が凋落していくなか、「プロレスは強い弱いではなく楽しいものであり、エンターテインメントとしてお客さんに満足してもらえないと俺たちは生きていけない」と考え、実行しようとした。しかし古いプロレスファンたちは、猪木イズムという過去のノスタルジーを愛したため、棚橋は否定され、多くのブーイングを受けることとなったのだ。

そんななか、棚橋選手はリングで『愛していま~す!』という決め台詞を言うようになる。それは「新日本プロレスを愛しているということであり、同時に『ぼくが生活できるのはぼくのことを罵り続けるプロレスファンのおかげだ』という意思表示でもあった」のだ。エンターテナーである棚橋選手は、ファンを憎んだり罵ったりはできない。だから「愛してま~す」という叫びに自分の思いを込めたのである。

当然ながらこの決め台詞は、最初、プロレスファンたちにまったく受け入れられない。しかし、めげずに続けているうちに徐々に受け入れられるようになってくるのだ。と同時に、棚橋選手は試合の合間、本来は休息に当てるべき時間を、ファンサービスやプロモーションに費やし、新しいファンをプロレスに呼び込んだ。

やがてオールドファンではなく、若者、女性ファン、小さな子どもたち……といった新しいファンたちが会場に集まるようになる。つまり棚橋選手はファンそのものを入れ替えてしまったのだ。

「特に東日本大震災の後は、『愛してま~す』という叫びは、ハッピーエンドのプロレスを楽しみたい新しいファンたちの思いと見事に呼応するようになる。ファンを入れ替えるという斬新な発想を持ち、新日本プレスを変えた棚橋選手は、佐山サトルに続く、プロレス界における最高の『思想家』の一人なんです」(著者)

一方、もう一人の主役である中邑真輔は、逆にアントニオ猪木の「ストロングスタイル」の継承者であり、「選ばれし神の子」と呼ばれた。猪木の求める「総合格闘技ができるプロレスラー」像にぴったりと嵌ってしまった中邑選手だったが、まさにそのために、新しいファンを獲得し、新しく生まれ変わった新日本プロレスでは棚橋選手の下に置かれてしまう。著者によれば、「新しい時代の新しいプロレスを代表するスターは新しい思想を持つ棚橋であるのは必然だと思うし、猪木の匂いのする中邑選手ではありえない」ということだ。

そこで中邑選手は戦いの場を、伝統あるIWGPヘビー級王座から、IWGPインターコンチネンタル王座というタイトルに移すことになる。これは、いわば「子会社に飛ばされたようなもの」である。しかし中邑選手はそこで腐らずに、面白い試合をやりまくった。しかも「ストロングスタイル」の呪縛を断ち切り、自分の好きなスタイルで自由に戦った。そのために「インターコンチネンタル王座」の価値はをどんどん上昇したのだ。「子会社に飛ばされた人間が、子会社を本社より大きくしてしまった」ような状態になったのだ。

’14年1月4日、3万5000人の観衆を飲み込んだ東京ドーム。この日のメインイベントは、歴史あるIWGPを差し置いて、インターコンチタル王座をめぐる中邑vs.棚橋の選手権試合。子会社が本社を食い、本社に君臨する棚橋選手が中邑選手が率いる子会社に、逆に引っ張り出されたのだ。この場面は本書のクライマックスといえるかもしれない。

そして、16年、中邑選手は世界最大のプロレス団体WWEに移籍し、今や世界中のファンを熱狂させている。「キング・オブ・ストロングスタイル」といえば、世界のプロレスファンは、猪木ではなく中邑真輔のことを思い浮かべる。本書に描かれたこの二人の生き方は、実際の組織運営やビジネス、何より苦境に陥ったときにどう生きるべきかという点で、大いに参考になる。まさに面白くて役に立つ一冊。プロレスファンだけのものにしておくのはもったいない本なのである。

 

『2011年の棚橋弘至と中邑真輔』柳澤健著 文藝春秋/1800円