2週間の休暇をとって新婚旅行に出かけた。それが1991年6月でなければ、もういつのことかも忘れてしまっていただろう。スペインからイタリアへ。旅路の最後はローマだった。日本語版の日本経済新聞がニューススタンドにあって、第一面にでかでかと「証券不祥事 腐食の構造」というタイトルが踊っていた。この年、この月に4大証券会社の損失補てん問題が露呈したのである。新聞の見出し一字一句まで憶えているくらいだから、相当に狼狽えたのだろう。当時、経済誌記者として証券業界を担当していたので、すぐに編集部に国際電話を入れた。

編集長は怒っていた。「おまえ、知っていて連絡よこさなかったんだろう」と。知れば新婚旅行は途中で切り上げ、帰国せざるを得ない。しかし、幸か不幸か2週間に渡って、日本のニュースに触れる機会がまったくなかった。携帯電話もインターネットもない時代である。テレビをつけても日本語チャンネルもない。マドリッドやバルセロナ、フィレンツェ、ヴェネツィアで日経新聞を見かけることも一度もなかった。そういうわけで、担当記者は音信不通である。編集長は外部ライターに依頼して、当座をしのいでいた。わたしは成田から会社に直行し、その後の特集記事の取材を引き継いだ。新婚気分は帰りの飛行機の中でどこかにすっ飛んでいた。

もう時効だから打ち明けるけれど、仲人をお願いしたのは、取材を通じてお世話になっていた準大手証券会社の法人担当役員である。ご本人が損失補てんド真ん中の当事者であり、そのカラクリについては精通している。それまでは酒を酌み交わしてもおくびにも出さなかったものが、日経にすっぱ抜かれるや「おまえも結婚したことだし、ご祝儀をやらないといかんな」と損失補てんの全貌を仔細に解説してくれた。損失補てんに伴う一連のやり口は「飛ばし」とも呼ばれているが、その言葉を初めて見出しにしたのは日経新聞よりも早かったはずだ。現場で「飛ばし」ている仲人が洗いざらい教えてくれるのだから、あたり前田のクラッカーである。

もっとも、後日になって仲人は「おまえのおかげで50億円チャラになったからな。一生呑ませてやるよ」と冗談を言った。訊けば、わたしが書いた特集記事のおかげで、「損失補てんしないと出るところに出るぞ」と強硬に揺さぶりをかけていた某大手商社が要求を引っ込めたのだという。もちろん、こちらは証券不祥事をにらんで仲人をお願いしたわけではない。偶然の幸運だ。しかし、仲人のほうでは、マスコミにリークすることによって、事業会社の損失補てん要求から逃れる手を予め考えていたフシがある。「でしょ?」と酒場で聞いたら、ニヤッと笑うだけで答えなかった。煮ても焼いても喰えない。

喰えないといえば、損失補てんする証券会社は悪いが、それを要求する事業会社は悪くない。と開き直るお偉方も少なくなかった。もう物故されたので、あえて実名を出すが、三菱商事の財務担当役員、太田信一郎氏がそうだった。バブルの時代、財テクで数千億円の利益を稼いだが、裏を返せば株価下落に伴う損失も大きい。深夜、太田氏の自宅に取材に行ったところ、「法律はどうだろうと関係ない。(利回り保証の約束がある以上)必ず損失は穴埋めしてもらう」と言い切ったものである。仲人もこういう取引先に手を焼いていたのだろう。

証券会社も好き好んで損失補てんしていたわけではなかった。大手商社などは資金運用の「利回り保証」を半ば強要し、証券会社に一筆を入れさせていた。

某大手商社の応接室。財務担当者が証券会社の営業マンを恫喝している。

「おたく(の利回り保証)は**%ですか。それじゃ運用は任せられないな。他社さんはもっと高い利回り出してますよ」

「いや、**%で精一杯です。これより高い利回りを保証するなんて、ちょっと考えられません」

「じゃ、そこの仕切りの向こうで聞いててくださいよ。嘘じゃないから」

ここで他社の営業マンが入ってきて、一部始終を聞かされる。実際に信じられないような高利回りが提示されている。資金運用を受託するためには「約束」のハードルを上げるしかないーー。

とまれ、1991年の証券不祥事で4大証券会社の我が世の春は完全に終りを告げる。その年のうちに、わたし自身も証券業界からエレクトロニクス・通信業界に担当替えとなった。バブルというジェットコースターのアップダウンを目の当たりにした4年間、イケイケの社長・役員連中とドップリ付き合ってきた。経済誌記者として最初の担当業界で、これだけ激しい変化を経験することができたのは、実に幸せなことだったと今にして思う。

と、まあ、証券業界の話はここで終わるとよかったのだけれど、まだまだ因縁は続いていくのですね。エレクトロニクス・通信業界担当時代のこぼれ話については稿を改めるとして、時計の針を6年ばかり進めよう。当時、ライフワークとして追いかけていたNTT分割問題が政治決着したことで、1997年に金融担当に逆戻りする。証券会社だけでなく銀行やノンバンクも受け持つことになり、さっそく挨拶回りを始めた。

が、挨拶回りなんて悠長なことは早々に言っていられなくなるのである。1997年は我が国金融史のなかで最も重要かつ重大な転換を迎えた年だ。それから2年という短い期間で起こったことは、今でも紙芝居を語るように克明に描き出すことができる。

1991年の損失補てん事件は金融システムを蝕む病根となり、1997年に未曾有の経済危機の引き金を引いた。次回は疾風怒涛の2年間について、当時は書きたくても書けなかった内幕をぶちまけよう。