『学力喪失』
「計算はできるのに文章題ができない」「漢字は書けるが読解問題が苦手」こうした悩みを持つ親や教師は多い。これは単なる勉強不足ではなく、より根本的な問題だと本書『学力喪失』は指摘する。著者の今井むつみさんは子どもの言語・概念獲得を専門とする言語学者。長年「言葉はどう獲得されるか」という問いを科学的に追究してきた研究者が、現代の子どもたちの学力低下に警鐘を鳴らしている。
本書の核心は「スキーマ」という考え方だ。これは人間が物事を理解するための「認知的枠組み」のことである。例えば、子どもは「リンゴ」という概念をどう習得するか。雑に言うと、最初は「赤くて丸いもの=リンゴ」といった概念でリンゴを認識し、赤いボールやトマトを見て「リンゴ」だと発言し、否定されるといったことを繰り返し、「リンゴと呼ばれるのものが何なのか」を学びとっていく。こうした試行錯誤を通じて概念の枠組みを精緻化していくのだ。
今井によれば、現代の子どもたちはこの「スキーマづくり」が不十分なまま、ただハウツーとして正解を導くやり方を教えられている。表面的には計算できても、問題の形が少し変わるだけで正答できなくなるのはそのためだ。
算数では、数字を出てきた順に足す単純な問題は解けても、「二番目と三番目の数を足せ」といった指示に変わるだけで正答率が激減する。なぜなら「求めよ」「算出せよ」といった言葉の本質的意味を理解していないからだ。分数の理解においても、例えば「1/3」を教える際、「全体を1として考える」という概念的理解が不可欠だが、多くの場合、この「1の概念」を体感させることをせず、機械的に計算する方法だけを教えている。
国語の読解力についても同様で、スキーマづくりの不十分さが問題となる。早期の文字学習より、幼少期から豊かな言葉を耳で聞き、試行錯誤しながら自分で意味を理解する経験の蓄積が重要なのだ。
著者は学びについて、子どもの自然な認知発達を尊重したアプローチを提案している。実体験を通じた学習の重視し、「なぜ」「どうして」をグループで考えるような対話、間違えてもいいから試行錯誤すること、丸暗記よりていねいな概念理解を優先するなどなど、である。
本書を読めば、学ぶとは外部から「正しい知識」を注ぎ込むことではないことを痛感する。数字や言葉を通じて自己と世界とを結びつける体験の場を作ることこそが、学びの場に何より求められている。
『学力喪失』今井むつみ 岩波新書