第11回 週刊誌記者は「長生き」できない?

先月はメルマガ休載のお許しを頂戴し、地中海1周クルーズと洒落込んだ。猛暑の東京を逃れて、気ままな一人旅である。空は抜けるように高く、海はどこまでも青い。

というのは大嘘で、これまでの人生にないトラブルに追われまくったおかげで休載を余儀なくされた。というのが本当の話。私事で恐縮だが、しばらくお付き合い願いたい。

まず、7月中旬に家内が直腸ガンの告知を受けた。年明けの内視鏡検査でポリープが見つかっていたのだが、娘の大学受験もあって放っておいたらしい。

ポリープを取ってしまおう。と思い立って、再検査を受けたときには、数ミリの豆粒だったものがジャンボたこ焼きくらいの大きさになっており、もはや内視鏡で切除することは不可能になっていた。

すぐに入院、腹腔鏡下手術の運びとなり、もちろん本人がいちばん大変なのだが、こちらも全ての予定をキャンセルせざるを得なくなった。正しく「右往左往」である。

術前説明において、「もしかすると、ガンが腸の外壁にはみ出しているかもしれません。その場合、他臓器への転移は確実なので、これだけはないように祈るしかありません。祈ってください」と告げられた。

術後、まだ家内の麻酔が醒めやらないうちに担当医が出てきて、「転移はありません」と聞いた瞬間には膝の力が抜けそうになった。手術の結果について説明しながら切除したばかりの直腸を嬉しそうにのばしたり縮めたりしていたのが印象的だった。いいお医者さんでよかったな、と思った。

余談の余談になるが、切ったばかりの直腸は焼肉のホルモンにそっくりだ。これを見てホルモンが喰えなくなった。という話をよく聞くが、手術が成功してホッとしたせいか、なぜか焼肉が喰いたくなったのだな。

手術は無事に終わったが、その後の経過観察もあって2週間の入院生活が続いた。腸閉塞を防ぐために術後の日数×病棟10周(1周は約130m)を毎日歩かねばならない。術後2日なら20周、5日で50周、約6.5kmである。病棟ウォークには毎日付き添った。

腸炎に罹ったりして、いささか退院が遅れたものの、8月中旬の声を聞くころには自宅に帰ることができてホッとした文字通り「翌日」のことである。

実家から電話がかかってきて、親父が脳梗塞で倒れたという。我が耳を疑いましたね。こんなことあるの、って。

こちらも不幸中の幸いだが、集中治療室からは2日で出てきて、現在は言語明瞭、身体の不自由もなく、ほぼ後遺症はない。

と、ここまでが余談で、これからが本題である(と言っても、余談めいたものであることに変わりはないが)。

「週刊誌記者」の平均寿命を調べてみることができれば面白いなぁ、と時折思うことがある。おそらく70歳、80歳まで長生きできる職業ではないだろう。

100mを全力で走る。ちょっと休む。100mを全力で走る。ちょっと休む。の繰り返しでフルマラソンを完走するような仕事である。

締切は毎週やってくる。そのたびに2〜3日の徹夜はザラだ。丸4日間、家に帰れなかったこともある。

締切にかかっている最中にも、脳みそが焼き切れるくらい、記事をブラッシュアップすることに没頭する。

ようやく脱稿した日には、すっかり心身がオーバーヒートしてしまっていて、何日も徹夜しているというのに酒を呑んで火照りを冷やさないと寝付けない。

日付けが変わったあたりから呑み始めて、空が明るくなるまで行きつけのバーに居続ける。グデングデンになり、その日は夕方まで人事不省になって眠る。

そして、翌日からは取材、酒(会食)。そしてまた締切である。これで長生きなどできる道理がない。

正直な話、50歳まで生きられないだろうな。と思っていた。本年を以って54歳になるが、今でも還暦まで生きられる気がしない。8年前に会社を辞めた分だけ寿命がのびているだけだろう。

娘が生まれた年(今年、二十歳になるから、考えてみれば20年前だ)に受診して以来、人間ドックも健康診断もご無沙汰である。特に不調があるわけでもないが、ちゃんと検査すれば悪いところの10や20はすぐに見つかるに相違ない。

「なるようになるさ」

我が身のことは、そう割り切っている。ガンでも何でも驚かない。だが、家内や親父がガンや脳梗塞に倒れたりすると、自分のことより堪えますね。

家内はこれから抗ガン剤治療に入る。後遺症はないとはいうものの、親父のリハビリも続く。おふくろの負担が重いので、当面は実家に帰れず入院生活だ。

世の中にはありふれたことなのだろうけれど、この歳になるまで本人はもちろん家族の健康を意識することがほとんどなかった。それは、とても幸運なことなのだろう。

だからこそ、自らの「終活」について思いを致さないわけにはいかない1ヶ月でもあった。調子が暗くなって、ごめんなさい。来月からは面白おかしい話に戻ります。