”就活生の5人に1人?「早くも内定」の謎”

4月24日付け日本経済新聞のこんなヘッドラインが目に留まった。

そういうわけで、己の過去を振り返りつつ、昨今の就活事情を語ってみたいと思う。

悪戦苦闘の就職活動の末に、初めての内定を貰ったのが、1986年12月1日のことであった。何故に日付けまで覚えているかというと、それが誕生日だったからである。

その昔の話であるが、大学4年生の12月に内定というのは、いかに当時であっても遅すぎた。就職浪人するくらいなら、学生時代にハマっていたスキューバダイビングのインストラクターにでもなろうか。と思ったくらいである。

ここまで内定がずれ込んだにはワケがある。
1980年代には、経団連の就職協定があって、公式な就職活動解禁は9月1日だった。

しかしながら、そんな協定が有名無実と化していることだけは今も昔も変わらない。同級生は早ければ4月にOB訪問を始め、遅くとも6月には内定が出ていた。

たいてい2~3社の内定は貰っていたようですね。そういうわけで、9月1日には二股も三股もかけていた中から、どれか1社を選ばなければならない。その日は、いわゆる内定した会社に身柄を拘束されるので。 野村證券が、東大卒の学生を他の会社に奪られぬように、ハワイに連れて行ったと囁かれた時代であります。

早起きは絶対に出来ないなぁ。という条件から就職先を絞り込んでいった。証券会社などは以ての外である。ぎりぎりと考えた結果、残った選択肢が「出版社」だった。

で、バカ正直というか、何も考えていないというか。その頃の出版社というのは、9月1日から採用活動を始めるのですね。

おおよその流れで言えば、筆記試験から始まり、2度か3度の面接を経て、役員面接で内定が決まるという。

一般の大企業は、4~6月のOB訪問で内々定が出て、9月1日に筆記試験をやるわけで、順序があべこべになっているのですな。もっとも、出版社の順序が真っ当で、一般企業のほうが間違っているのだけれど。

したがって、4~6月は同級生がコマネズミのように動き回るなかで、ずいぶんとヒマを持て余していた。出版社に関する限り、OB訪問なんざ、やるだけ無駄なのである。筆記試験と面接のみで決まる世界なので。

マージャン相手もいないので、それでも仕方なくOB訪問でもしてみようかなと思い立った。くどいようだが、まるで内定には結びつかないのに。だって、遊んでくれる友人も見つからないんだもん。

大学の学生部でOBの就職先を調べ、いの一番に新潮社の先輩を訪ねた。今にして思えば、人生の恩人ですね。大仰だけれど。

「へえ、出版社のOB訪問? 珍しいね、じゃ、一杯やろうか」

お誘いを受けて、居酒屋で呑んだ。『芸術新潮』を志望して新潮社に入ったばかりの先輩は、思いもしなかった『フォーカス』に配属され、疲れ切っていた。

『フォーカス』は夜討ち朝駆けの激務だそうで。脳みそは要らない、筋肉を使え。ってなもんですね。酒が進むにつれて、

「俺、会社やめるかもしれね」

って、それが出版社志望の学生に言うことかよ(笑)。

兎にも角にも、先輩の同級生が何人か出版社に就職しているというので、芋づる式にご紹介をいただいた。そのなかの1人が勤めている会社に、四半世紀も働くことになったのだから「縁は異なもの」である。

12月1日に内定を貰った出版社が、まさにその会社であって、20社近い就活を経て、その会社からしかラブコールは頂けなかった。そして、その会社のことは、OB訪問するまで名前すら知らなかった。社会人には名前が売れていたが、学生にとっては縁遠い出版社だったのである。

改めて、新潮社の先輩に感謝。であるなぁ。今、何やってんだろ?

閑話休題。

20社近い出版社を回って、1社しか内定が出なかったのには、それなりの事情がある。筆記試験は楽に通るのだが、面接に落とし穴があったのですね。

「あのね、編集に配属されるとは限らないんだよ。営業に回ることだってある。

それでもいいのですか?」

いわゆる「踏み絵」である。実際は編集志望で採用されて、営業に配属されることなど滅多にない。なのに、なんでこういう意味のない質問をするのかね?

「営業やるなら証券会社でも商社でも行きますよ。編集やりたくて出版社を受けているのであって、営業をやる気はありません」

生意気にも、こんな答えを言い続けて、連戦連敗と相成ったわけだ。つまらないことをしたものである(苦笑)。

 

それから20年近い年月を経て、今度は採用面接をする側に回り、学生さんに同じ質問をする立場になった。

「あのね、編集に配属されるとは限らないんだよ。営業に回ることだってある。

それでもいいのですか?」

「もちろんです。どこに配属されても一所懸命にやります」と抜かす学生には片っ端からバッテンをつけた。

今でも思い出すのは、早川書房の面接である。ハヤカワは海外のハードボイルド、ミステリ翻訳の総本家みたいなもので、これはやってみたい仕事だったのだな。

で、筆記試験はカート・ヴォネガットの小説を出来るところまで翻訳する。という、いかにも早川書房らしいものだった。今も昔も英会話はカラッキシだが、何とか筆記試験はパスした。ところが、面接試験が講談社の最終面接と重なってしまい、早川の採用担当者に「大学の試験があるので、面接を延ばしていただけないでしょうか」と掛け合う運びとなった。「結構ですよ。この日はどうですか」

と担当者は快く請けあってくれた。

講談社よりは早川に行きたかったんだけどね。面接は通常は内定に至るまで2~3度はある。しかるに、早川は第一次面接で、講談社は最終面接。喉から手が出るほど内定が欲しかったから、講談社を優先させたわけだ。

早川の面接には、最高裁判所の大法廷よろしく面接官が十何人もずらっと並んでいて、面食らった。普通、第一次面接ってえのは、2~3人でやるものなんですよ。後にして思えば、早川は第一次面接すなわち最終面接だったんだな。一発勝負。

十何人もいるのに、質問を投げかけてきたのは、ど真ん中に座っている、ちょっとヤクザの大物めいた、貫禄のある人物であった。まだご存命だった創業者、早川清その人である。

「おい、試験だったそうだな。うまく出来たか」

「はい、なんとか」

ちょっと間があって、銅鑼声が室内いっぱいに響いた。

「嘘をつけ、このヤロー。ひとを舐めてんじゃねえぞ!」

震え上がりましたね。いやはや。その一声で面接は終わり、当たり前のことながら失格となった。

ついでに言えば、講談社もしくじって、その年は最終面接に20数人進んだのかな。うち1人だけが落ちるという憂き目を見た。最終面接で訊かれたことといえば、「朝めし、何喰ってきた?」くらいの世間話だったのに、なにゆえバツをつけられたのか。今でも不思議に思う。

話を最初に戻そう。今日日の学生さんは、大学3年生の6月から就活を始めるそうな。で、大学4年生の4月には内定が出るという。

長いし、早いね。大学って、本来は就職するためにあるわけではないはずだが、これじゃ本末転倒ではないか。と思わないでもない。

就活のあり方、スケジュールを抜本的に見直さなければならないのではないか。

見直さない限り、学生はどんどんステロタイプに陥って、とどのつまりは無個性・画一的な人材しか採用できなくなるのではないか。それは採用する側の企業にとって、ブーメランのように突き刺さってくるのではないか。

というのが、今月の結論にもならない結論であります。(了)