第107回 新聞・雑誌に付き物の「表記の揺れ」、我を通して校正者を困らせた思い出

つい先日のこと、居酒屋で呑んでいて壁に貼られた「短冊」を見ていたら、「刻みやまいもと明太子」「刻み山芋とまぐろぶつ」が隣り合わせになっていた。

かなた「やまいも」、こなた「山芋」。こういうのを「表記の揺れ」と呼ぶ。

いろんな表記があるからねえ。とりわけ、飲食店には。たとえば、「麻婆豆腐」だ。漢字では「麻婆豆富」があり、「マーボー豆腐」「マーボードーフ」「マーボードウフ」「マーボドーフ」「マボートウフ」などなど。

こういうのを見ている分には楽しいのだが、新聞・雑誌の世界では「表記の揺れ」は許されない。同じ記事はもちろんのこと、違う記事であっても「山芋」と「やまいも」が混在するのは好ましくない、というのは何となくお分かりいただけるだろう。

そういうわけで、新聞社・出版社にはそれぞれ独自の「表記統一ルール」がある。「独自の」とはいいながら、こういうご時世だからどこもかしこも似たようなものだ。

とても有名な詩人が書いた、さほど有名でもない詩があって、筆者はこれを諳んじるほど愛している。ま、短い詩だから「諳んじる」なんてもんじゃないんですけどね。


あなたが生れたその日に
ぼくはまだ生れてゐなかった

途中下車して
無効になった切符が
古洋服のカクシから出て来た時
恐らく僕は生れた日といふもの

こんな短い詩の中ですら、「表記統一」のタネはいくつもある。

「生れて」は通常は「生まれて」だろう。「切符」は今では「きっぷ」かもしれないし、「カクシ」は「かくし」、「恐らく」は「おそらく」になるだろう。

何より、「やまいも」と「山芋」と同じように、「ぼく」と「僕」が混在している。居酒屋と違うのは、詩人独特の言語感覚によって意図的に使い分けられていることだ。

これは筆者の想像なのであるが、詩人は「あなた」を「貴方」「貴男」「貴女」とは言いたくなかったのだろう。すると、すぐ後に続く「ぼく」は「僕」とは書きにくい。

しかしながら、この詩人の言語感覚では「ぼく」は「僕」であるので、最後の一行では「僕」ということになる。「なんとなく」さふいふ気がする(感染っちゃった!)

このコラムでも、つい先ほど「何となく」と書いたが、「なんとなく」と書きたくなることだってあるのである。

いいじゃないか、それでも。と思うのだが、新聞・雑誌の記事ではそういうわけにはいかない。表記統一ルールに従って、校正者が機械的に修正していく。

一例を挙げれば、「現れる」「表れる」という表現である。ビジネス週刊誌にはよく出てくるのだが、個人的にはどうしても「現われる」「表われる」のほうがしっくりくる。こういう「送り(仮名)」は、釈然とはしないまでもルールに従うしかない。

それでも、黙ってはいられないことだってある。今でも忘れられないのは、「正しく」という表現である。

「正しく、その時しかなかった」みたいな。

これを、校正さんは「まさしく」と「開く」のである。「開く」とは、すなわち漢字を仮名に置き換えることだ。

余談になるが、昨今の表記統一はどこもかしこも「開きすぎ」である。選挙ポスターさながらに漢字を仮名に換えて憚るところがない。と書いたら、古巣の週刊誌ならば「憚る」→「はばかる」に直されてしまう。

いいかげんにしろ。

ーー取り乱しました。話を元に戻すと、「まさしく」ではないのである。「ただしく」と言いたいのだ。しかし、「正しく」は表記統一ルールでは「まさしく」になる。

それで、校正を戻す時に「これは”ただしく”です」と注記をつけた。すると、校正さんは「正しく」→「ただしく」と修正してきた。

違うんだなぁ。「正しく」なんだよ(笑)。と校正さんに伝えたところ、「ルビ(ふり仮名)をふりましょうか?」と言われたので、「正しく(ルビなし)」で押し切った。

校正さん曰く、「ルビをふらなければ、読者は”まさしく”と読むでしょうから、”まさしく”でいいと思うんですけどね」

それはそうかもしれないけれど(そうだろうけれど)、書き手としては「正しく」にこだわりたいのである。

かつて、日本IBM社長としてコンピュータ産業を立ち上げた椎名武雄さんの回顧録を記事にしたことがある。「コンピュータ」は常識的な表記統一ルールによる呼び方なのだが、それが正しいと言い切れるだろうか。

椎名さんは、アメリカの大学に留学し(昭和20年代のことである。よほど革新的でお金に困らない家柄だったのだろう)、アメリカのIBM本社で採用され、日本に送り込まれた。

「最初の工場がね、大森の海苔屋を居抜きで買い取った純和風の家屋だったんだ。お手洗いなんか”ボットン”(汲み取り式)で、アメリカの最先端工場を知ってるもんだから、あまりの落差にガックリきた」と振り返っていらした。

それから数年たつかたたないうちに、椎名さんは新工場建設に着手する。「当時の社長に無断で進めたもんだから、”おいおい、僕にもひと言相談してくれよ”と苦情を言われたよ」と笑っていた。

それは兎も角、椎名さんは記事における「コンピュータ」という表記に難色を示した。「”コンピューター”にしてくれないかな」と言うので、表記統一ルールを破ってあえて「コンピューター」を使った。

「コンピューターの元祖」が「コンピューター」と言うのだから、正しくは(いくら何でも、これは”まさしく”とは読まれないだろう)「コンピュータ」ではないのである。

しかしながら、今やどの新聞・雑誌も「コンピュータ」の表記を用いている。1紙・1誌くらい「コンピューター」にこだわる媒体があってもいいとは思いませんか。

かつて、編集会議でこんな提案をしたことがある。「誤字脱字はもってのほかだけれど、表記の揺れに関しては、記者個人の言語感覚に委ねてもいいんじゃないか。そのほうが、雑誌の個性が際立つんじゃないか」

言うまでもないことだが、一顧だにされなかった(笑)

週刊誌編集部には、常時3人の校正さんが詰めていた。どの校正さんとも一度や二度(じゃ済まないな)は、表記統一ルールを巡って揉めた。

校正さんにしてみれば、表記統一を定めた「校正ルールブック」に忠実に修正しているだけであり、記者の言語感覚に振り回されては仕事にならなくなってしまう。

しかも、原稿の締め切りが遅れれば、校正さんも家には帰れない。残業手当がつくとはいうものの、ずいぶんと迷惑をはねちらかしたことだろう。

振り返ってみれば、悪いことをしたなぁとは思う。それでも、「表記の揺れ」に関する考え方は今でも全く変わっていない。