第19回 「失敗の変質」

今月の初めにゴールデンウィークがありました。
いわゆる黄金週間です。

いわゆる私は自由業なもので、いつ休んでもかまわないのですが、とりあえず世間並みに5月1日から5日まで五連休をしてみました。

しかしながら、例によって先立つもの(*)がありませんので、時間だけがあるという歪(いびつ)な状況です。(しょっぱなからヘンな日本語連発ですが、「*先立つもの」と云えばお金ですね。先立つ不孝をお許しください)

こんなときは黄金週間ですから、黄金伝説(*)でも作るしかありません。

(*「いきなり!黄金伝説。」というテレビ朝日系の番組内で、限られた時間内で達成困難な目標にチャレンジして、みごと制覇したときに黄金伝説と認定される旧資本主義的なシステムのこと)

24時間以内に「餃子の王将」や「かっぱ寿司」の全メニューを食べ尽くすような、体調と財務状況を悪化させるようなチャレンジはできないので、手近なところで5日間でまとまった量の本を読むという黄金伝説にチャレンジすることにしました。

例えば、山岡荘八の「徳川家康」(講談社文庫26冊)を読破するとか、「宇宙英雄ペリー・ローダン」シリーズ(ハヤカワ文庫350冊?まだまだ継続中)を読み尽くすとか。

でも先立つものがないので(しつこいですね)、たまたま手元にあった「異色作家短編集」全20巻(早川書房)を読むことにしました。数年前に買った本ですが、幸いなことに(?)、一度も扉を開いたことはなく、ジャポニカと並んで本棚の飾りとなっていたのでした。

全20巻ですから、1日4冊読めば、5日で伝説達成です。意外と楽な伝説になりそうです(自分でラクに設定してますから)。

5月1日 記念すべき第一巻目「キス・キス」(ロアルド・ダール著)。
ロアルド・ダールといえば「あなたに似た人」や「来訪者」など著名な作品勢揃いです。
特に「来訪者」のエロチックなのに、読後のゾクゾク感と落ち着かない奇妙な感じは堪りません。
「キス・キス」も多少古くささはあるものの、期待を裏切りません。
さすが、「異色作家短編集」第1巻目です。

第二巻目「さあ、気ちがいになりなさい」(フレドリック・ブラウン著)。

ミステリーやSF小説で有名なフレドリック・ブラウンの短編集です。
「発狂した宇宙」や「未来世界から来た男」、「まっ白な嘘」など、今どきなら「不適切な表現があります」と注釈がつくような内容ですが、やっぱり面白い。

・・・ほんとに面白いと思っていたら、夜になっていました。
読むスピードが遅い。。。
でも、あと18冊。残り4日で読むには1日4.5冊読めばいいのです。

5月2日第三巻目「一角獣・多角獣」(シオドア・スタージョン著)。
SF小説でお馴染みのスタージョンの登場です。
X-Menやファンタスティック・フォーのような特殊な能力を持つ人々を描いた小説「人間以上」が有名ですね。
。。。。。
。。。。。
。。。。。

と、まあ、ここで黄金伝説挑戦は挫折したのでした。

残りの黄金週間をどのように過ごしたのか、もはや記憶にありません。今はもうはるか昔のことのように思えます(と遠い目をしてみる)。
そして伝説挑戦の「失敗」のみがノドに刺さった魚の小骨のように私の心をさいなみます。

それにしても、人はなぜ「失敗」してしまうのでしょう?
そもそも「失敗」とはなんなのでしょう?
広辞苑第五版によると、

【失敗】
やってみたが、うまくいかないこと。
しそこなうこと。
やりそこない。
しくじり。

・・・・・・ネガティブな言葉が並んでいますね。

「やりそこない」とか「しくじり」という言葉を改めて見ると、しみじみ自分はダメ人間だなぁ、生まれてきてすみません、昨日もつい呑みすぎてしまいました(関係ないですね)。。。ため息が出てしまいます。

「失敗」の判定はいつ、だれがするのでしょう?
今回の読書チャレンジの「失敗」は、私だけが知っている失敗なので、私が認定した段階で失敗です。
だからズルをしようと思えば、最初からこんな挑戦してないもんね。とシラを切って失敗そのものの存在を否定するコトも可能です(意味ないけど)。

実社会では、「失敗」判定までに長い期間がかかるケースがたくさんあります。

地球温暖化を防ぐために二酸化炭素の排出量を削減しようとしていますが、はたして25%削減という目標が達成できれば、地球温暖化を回避できるのでしょうか?その時になってみなければわかりませんね。

いわゆる「ゆとり教育」は「失敗」だった、と言われていますが、何を持って「失敗」と判定したのでしょう?

【ゆとり】
余裕のあること。
窮屈でないこと。

 

ゆとりのある生活は理想です。

でも、昨今の新聞・テレビでいうところの「ゆとり世代」という言葉には侮蔑的、差別的響きがあります。
ゆとり教育を受けた世代の人達のこと指すようですが、彼らが悪いわけではなく、その政策を実行した社会に責任があるということが蔑ろにされているように思えてなりません(と本来の真面目さを取り戻してみる(当社比2倍))

詰め込み教育は子どもの個性をなくすから「ゆとり」をもった教育を、という発想が問題だったわけですね。

子どもの頃に知識を詰め込まずして、いつ詰め込むのでしょうか?
子どもの柔らかいスポンジのような頭脳は、素晴らしい吸収力を持っているのです。
中年の萎縮した使い古しの海綿のような頭脳には、なにも吸収されません。

インプットなくしてアウトプットはないのです。
西洋の古い諺に「インプットなきアウトプットは神かペテン師の如く、アウトプットなきインプットは生活習慣病の始まりなり」というものはありませんが(今、適当に思いついただけです)、まあ、そういうことだと思います。(どういうこと?)

元祖ゆとり世代(*)の私が言うことですから、間違いはありません。
(*子どもの頃、靴も服も常に「ゆとり」のあるものしか買ってもらえず、運動会の徒競走で靴は脱げるし、服の大きさに体が追いついた頃には、すり切れてウエスにするしかないのでした。)

たくさん詰め込んでから、ようやく個性が芽生えてくるわけです。
最初から「オンリーワン」なぞ目指してはいけません。「オンリーワン」とは社会の枠に収まらないハグレ者のことです。
元祖はぐれ者(*)の私が言うことですから、間違いありません。
(*子どものころ、親と出かけると、かならずハグレました。しかも純情派ではありません)

「ゆとり」はいいことなのですが、子どものうちから「ゆとり」を持ってはいけないのです。

有名な「ゆとり理論」をご存じでしょうか?
鳥を熱い湯につけると、あわてて飛び出しますが、水に鳥をつけておいて、じょじょに暖めていくと鳥は風呂に入っているかのように寛いで、終いには熱湯になっても飛び立つことはせず、ついには美味しい鶏の水炊きとなります。

鶏肉の他にミズナ、白菜ないしキャベツ、長葱を入れ、好みでキノコ類、しらたき、春菊などを入れるとよいでしょう、というのが「湯鳥理論」です(ウソです。「茹でガエル」のパクリのような気もします)。

まあ、結論としましては、お値段以上、ユトリ。ってことでしょうか・・・。

※また、今月も「失敗」してしまった感がありますが、みんなで「失敗」と認識しなければ、「失敗」は存在しないというどこかの国の偉い人のように胸をはって生きていこうと思います(なぜか涙目)。

img1005