第30回 「青春の門」のころ

『青春の門』のころ先日、書店で「青春の門」の文庫本を発見した。

平積みされた表紙には「第七部挑戦篇」と表記されている。
「青春の門」は言わずと知れた五木寛之が書いた青春大河小説だが、第六部の再起篇で中断していたような気がする。
いつのまに第七部が世に出たのだろうか。。。

不意にこの本が過去の記憶を呼び覚ました・・・高校生のころ、講談社文庫「青春の門」の第一部筑豊篇を読みながら、主人公伊吹信介と彼を取り巻く人々に胸を熱くしたことを思い出す(いろんな意味で)。

自立篇、放浪篇、堕落篇、望郷篇と主人公の波乱に富んだ青春に共感したり、否定的に見たり、羨望したりしながら読み進んできたが、第六部再起篇に至る頃には、伊吹信介とは違って何の波乱もなく面白みのない平凡な学生になっている自分に気づいたのだった。

今となっては、「青春の門」の内容はほとんど覚えてはいないが、それでもいくつか印象に残っている場面がある。

幼少の頃の伊吹信介は、侠気溢れる父重蔵の亡き後、美しい義母タエに育てられる。タエに抱く幼い恋心(って、こんな場面あったかな・・・)。

それにしても、「義母」という言葉は不思議だ。意味的には「継母」と同じはずだが、Googleで検索すると、「義母」は何故か官能系の見出しが並び、「継母」は人生相談系の見出しが並ぶ。

「義」と「継」の何が「母」を変えたのか?・・・なんか話が横道に逸れてしまいました。

信介の幼なじみの織江が「信介しゃん」と呼ぶたびに、作中で迷惑そうにする信介の代わりにドキドキした(ような気がする)。

少女時代の織江はなんだか貧乏くさくて哀しい。山崎ハコの唄う「織江の唄」を聴くと余計に落ち込む。
山崎ハコそのもののイメージが暗い(実際は知りませんが)。

北原ミレイの「ざんげの値打ちもない」や大信田礼子の「同棲時代」などと同じテイストで、唄を聴いてるだけで背中が丸くなってしまうのです。

「同棲時代」のイントロのナレーション「愛はいつもいくつかの過ちに満たされている」と聴いただけで、「いくつか」どころじゃないよなぁ、と肩を落とすのです(ま、愛について語る資格は全くありませんが)。・・・なんか話が裏道に逸れてしまいました。

伊吹信介は、どういう経緯か覚えちゃいませんが、早稲田大学に進学するのです。このくだりを読んだときバカな高校生だった我々(ワタシと友人たち)は、何の意味もなく「男ならワセダに行かなきゃならん!!」といきり立ったのでした。

田舎育ちの我々は早稲田大学がどこにあるかも知らないうえに、入学する学力があるかさえも顧みず、とにかくひたすら「ワセダ」を連呼していたのでした。

たぶん「ワセダ」は東京のはずだ。「天才バカボン」でバカボンのパパが「都の西北、ワセダの隣~♪」と唄っているし。って、それは「バカ田大学」の校歌だ。たぶん、そのころの我々に最も相応しい大学だったに違いない・・・バカ田大学。

なんか話が外道に逸れてしまいました。

つい先日、その頃の友人に偶然JRの改札前で会いました。
「よっ!」と声をかけたワタシを怪訝そうな顔で見つめる友人は、ようやくワタシを認めて「おまえ、老けたな。生え際が後退したなぁ」と、いきなりの一言。余計なお世話だ。

「生え際が後退したなんてネガティブなこと言うな。額(ひたい)がポジティブに勢力拡大しただけだ!」と言い放ってみたが、何の意味もない。

・・・はげしく話は抜道に逸れ続けてます。で、話を戻します。

伊吹信介はひょんなことからボクシングを始めます(「ひょんなこと」って、状況がよくわからないときの誤魔化しの言葉ですね)。

このボクシングのトレーニングがちょっと変わっていて、コーチが信介に向かって至近距離からピンポン球を投げつける。信介は向かってくるピンポン球をジッと見つづけ、顔面に当たる直前に素早く避ける。
この変な訓練を繰り返して、ボクシングの素人である信介は・・・。

あれ、このピンポン球の訓練、どこかで見たことある。
そう、亀田親子の特訓だ!

でも厳密には亀田親子の特訓を実際に見たことはない。お笑い番組「イロモネア」で、お笑いコンビの次長・課長が「ものボケ」で見せるネタだ!「コウキ!コウキ!」と叫びながら、ひたすら次長(課長?)が、課長(次長?)にピンポン球をぶつけ続ける不毛のネタなのだった。

亀田父も「青春の門」を読んだのだろうか?

・・・なんか話が花道に逸れてしまいました。

その頃、信介が憧れていた新宿2丁目のカオルさん(新宿2丁目ですが女性です)。ワタシも憧れていました(ま、どうしようもないエロ高校生だったのですね)。

いっしょにバイクに乗って、後ろから信介が抱きつく場面は忘れられません。
でも、ハンドルを握っていたのはカオルさんだったかな、もしかして高校の音楽の先生だったかも、そもそもそんな場面はあったのか・・・?(妄想か?)結局、ワタシは、いろんな女性が出てきて思わせぶりなので「青春の門」を熱心に読んだのだろうか。

それにしても思った以上に話が盛り上がらないですね(←それは書き手の技量の問題だろ)。

やはり、読み返すこともなく「青春の門」を語ろうとしたところに無理があったのでしょうか?(当然ですね。記憶だけで書くのは作者に失礼だし、限界があります)。

そもそも、中年が「青春」を語ること自体に間違いがあったのでしょうか?
どこかの国の人が”青春とは人生のある一時期のことではなく、心の在りようだ”的なことを言ってましたね。それはそれで支持を集めそうな意見ですが、やはり「青春は若さと不可分」なものなのです。

そして、ワタシは若い頃から「若いって恥ずかしい(若恥論)」と言い続け、危険思想の持ち主として当局からマークされてきたのでした。

その若恥論者の立場からいうと、三段論法で「青春も恥ずかしい」、のです。

喫茶店に彼女とふたりで入ってコーヒーを注文したり、長い坂道を登ってみたり、君の心へ続く長い一本道に勇気づけられたり、憎んでも覚えていてと言ってみたり、飛び出したり、なんだ?って訊いてみたり、グッバイしたり、ミ・アミーゴと叫んでみたり・・・とにかく定義のできないモヤモヤした宙ぶらりんで中途半端で体温が高くて想定外な状態が青春というヤツなのです。

そんなわけで、実はワタシは五木先生の本の中では「青春の門」より「夜のドンキホーテ」が好きだったりするわけです(出た!この期に及んでのちゃぶ台返し。しかも中途半端)。

「夜のドンキホーテ」とは(例の雑貨百貨店の話じゃないですよ)田舎から出てきた頑固爺さんが勝手な思い込みで夜の東京の繁華街に挑む(風車に挑むドンキホーテのように)という他愛のないユーモア小説です。

なんの理屈もなく、くだらないところがいいのです。「夜の・・・」というタイトルが好きだったりもします。本ならば「夜のピクニック」、映画は「夜の大捜査線」、唄は「夜の訪問者」、マンガは「夜のサザエさん」、スポーツは「夜の大相撲」や「夜のラジオ体操第二」、「夜の三点倒立」、歌番組は「夜のノド自慢」、「夜の給湯室」・・・・・キリがないですね。

・・・なんか話が夜道に逸れてしまいました。

果たしてワタシは「青春の門 第七部 挑戦篇」を読むのでしょうか?(どうでもいい質問ですね)読み始めたころ、ワタシより年上だった伊吹信介は、いまやワタシの半分くらいの年齢です。

彼が中年や熟年になる日は来るのでしょうか?(タラちゃんが小学生になる日は来るのでしょうか?コボちゃんは今年小学生になりました。って、脇道に逸れて・・・)

青春と無関係なワタシには読む資格がないような気がするのですが・・・

ふと我に返ると、こんな中途半端でモヤモヤした意味のない恥ずかしいことを書き綴っている段階で「青春の蹉跌」に嵌っている自分を発見するのでした。

「青春時代の真ん中は道に迷っているばかり」と森田公一とトップギャランの人たちも言っています。それが真ならば、道に逸れてばかりいる自分にも読む資格があるような気がしないでもありません。

あぁ、でも、やっぱり「青春の門」よりも春の陽気に誘われて花の下で「清酒呑もん」が中年にはシックリ来ると思うのです(って、最後はダジャレか・・・なんだかすごく恥ずかしい。穴があったら埋めたい・・・orz)。

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