第106回 「国際証券」を急成長させた「証券営業の神様」、一度もお目にかかれなかった豊田善一伝説
先月は「ユニバーサル証券」にまつわる思い出を記したのだが、そうなるとついでに「国際証券」についても書いておきたくなった。
昭和のバブル期、証券大手4社はそれぞれに「別働隊」とでも呼ぶべき系列証券会社を抱えていた。野村証券が国際証券、大和証券がユニバーサル証券、日興証券が東京証券、山一証券が太平洋証券である。
国際証券の社長・会長として同社を証券業界5位にまで押し上げたのが、野村出身の豊田善一さんである。
どういうわけだか、筆者は一度もお目にかかったことがなく、それが今でも残念でならないのだが、「証券営業の神様」とまで呼ばれたレジェンドであり、彼にまつわる逸話は各方面からいくらも聞いたものだ。
曰く、法人顧客との会食である。会長・社長クラスのVIPを料亭でもてなすのだが、豊田流接待は異色を極めていた。会席料理のコースが順々に運ばれてくるのでなく、前菜からデザートまで最初からズラッと卓上に並ぶのである。
乾杯するやいなや、忙しく箸を動かし、会話を愉しむ暇もなく、卓上の料理を平らげていく。1時間もかからぬうちに会食が終わる。
凄いのは、ここからだ。豊田さんの接待は「ダブルヘッダー」なのである。終わったら、次の会食が待っている。
運転手付きの専用車に乗り込み、しばしうたた寝をする。運転手が「着きましたよ」と声をかけると、「うぉっし、三菱(商事)か!」と気合いを入れて、料亭に突進していったというから只者ではない。
会食の礼状は、巻き紙に毛筆で認める。「祐筆」がいたとは言われているが、接待された会長・社長連中は、会食の有り様に驚き、礼状に二度驚いたことだろう。
国際の本社は中央区新川の東京住友ツインビルにあり、1棟を国際、1棟を住友海上火災保険(現・三井住友海上火災保険)が使っていた。
豊田さんはモーレツそのもので、朝6時には働いている。かたや、住友海上はおっとりしていて9時近くまで閑散としている。
会長室から住友海上の表玄関を眺めていた豊田さんが「あっちの会社はヒマでいいな」と呟いたたことが何処からか伝わり、住友海上の徳増須磨夫会長を激怒させたというエピソードもある。
当時の証券会社は「株屋」だったので、株式本部が一枚看板だった。「社長よりも株式本部長になりたい」という時代である。
豊田さんが素晴らしかったのは、「株で勝負したところで、野村には勝てない」と早々に戦略転換したことだ。
具体的には、投資信託販売、ワラント(新株引受権)の売買、そして中小企業の新規株式公開(IPO)に営業力を集中させたのである。
IPOに関しては、主幹事獲得にこだわらず、引受シェアが低くても幹事証券に加わることを徹底して優先させ、幹事社数を急速に増やしていった。
その頃の証券会社には思いもつかない発想であり、こういうことをあえてやったのは国際以外にはない。だから、取材していても実に面白かった。
新日本証券、和光証券といった準大手をあっという間に追い抜き、大手4社の一角である山一にあと一歩のところまで迫ったのは、豊田さんのイニシアチブによるところが大きい。
野村の副社長から国際に転じた豊田さんには、それだけの余力とバイタリティが残っていた。同じことは、国際という会社そのものにも言えただろう。
キープヤングを掲げる野村は若手をどんどん抜擢し、その結果として出世競争に一歩遅れた人材を次々に国際に送り込んだ。
野村から国際に転じた知り合いが何人もいたが、彼らに共通するのは「もう一花ここで咲かせてみせる」という張り合いだった。落胆したり失望したりという顔色を一度たりとも見たことがない。強くなるのは当然の帰結である。
1990年代後半のロシア危機により、野村は東京三菱銀行(現・三菱UFJ銀行)に国際を売却した。国際の親会社は、「証券界で最もアグレッシブな野村」から「銀行界で最もコンサーバティブな三菱」に変わった。
東京三菱銀行傘下の証券会社と国際が合併して「三菱証券」(現・三菱UFJモルガン・スタンレー証券)が発足したのが2002年。その2年後に豊田さんは、この世を去る。
手塩にかけた国際の来し方行く末をどう見ていたのか、どう思っていたのか。一度はお目にかかって、本音を聞いてみたかった。
蛇足:
それにしても、豊田さんほどの大物に一度もお会いしていないということが不思議でならないので、改めていろいろ調べてみた。
1989年に脳梗塞で倒れ療養に入った、とある。筆者が証券業界担当になって間もないタイミングだ。その時には、そのことをもちろん知っていたはずなのだが、すっかり忘れていた。
もう1~2年早ければ間に合ったかもしれないな。と思うと、ますます口惜しい。「知らぬが仏」とは、このことである(苦笑)。


