『大英自然史博物館珍鳥標本盗難事件』

『大英自然史博物館珍鳥標本盗難事件』ーーまずタイトルがいい(「博物館」や「鳥」というワードがタイトルにあるノンフィクションは面白いものが多いのだ)。しかも訳者は『解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯』や『アートで見る医療の歴史』の矢野真千子さん。面白本の匂いがプンプンする。

さて、実際に読むとまさに期待通り、いや期待以上の出色のノンフィクションだったーー。

大英自然史博物館から、美しいフウチョウ科の鳥たちの貴重な標本が大量に盗まれ、その中には150年前にマレー諸島でウォレスが採集したものも含まれていた。ウォレスとは、あの『マレー諸島』を著した博物学者にして探検家、そしてなによりダーウィンと同時期に自然選択説を捉えた生物/地理学者のアルフレッド・ラッセル・ウォレスのことである。

そんな、生物学的にも歴史的にも極めて貴重な標本を盗んだ動機は、なんとフライフィッシングのための毛鉤を作るためだった。たかが毛鉤を作るために、なぜそんなリスクを?

と思うかもしれないが、本書のカラーページに掲載された、カザリドリやフウチョウの美しい羽、そして何よりビクトリア時代の信じられないほど優美な毛鉤を見たら、思わず納得してしまうかもしれない。

ヒトは美しいものを見ることへの欲望を抑えられない
そしてそれを所有せずにはいられない

本書の冒頭に引用されたこの言葉の通り、それは「美への欲望」にとりつかれた青年による犯行だったのだーー。

さて、著者はこの事件の真相に迫る前に、著者は時間を一気に150年前に戻す。150年前、マレー諸島の美しい鳥たちに魅了されたウォレスの姿を活写し、さらに、ウォレスらから、金に糸目をつけずに標本を買い漁った動物研究に没頭したロスチャイルド家嫡流のウォルター・ロスチャイルド、羽飾りファッションの大流行、狩猟よる動物の大量絶滅と自然保護運動の台頭に言及、さらには毛鉤制作の歴史を紐解いていく。

このいわば「美しい鳥の羽をめぐる近代史」を語る部分だけでも十分面白い。そして第2部以降、いよいよ、鳥の羽に取り憑かれた、一人の青年による前代未聞の標本盗難事件が活写されていくのだ。犯人に直接取材もしており、犯罪ノンフィクションとして存分に楽しめる。

そして、事件の真相や裁判のゆくえが明らかになり、いよいよ完結か、と思いきや、うれしいことにさらに続きがある。実は犯人の青年は盗んだ鳥の羽をウェブサイトやオークションサイトなど販売していた。事件自体を追いつつ、著者は、稀少な鳥の羽と毛鉤をめぐるマニアたちのアンダーグラウンドな世界を明らかにしていくのだ。

歴史、事件、そして現代の暗部、3種のノンフィクションが組み合わさり、それぞれが誠実な筆致で描かれるのだから、もう読み手として大満足としかいいようがない。さらにそのすべてを絶滅した鳥たちの、「この世のものとは思えないほど美しい」羽が彩るのだ。

さらに、装幀、造本も素晴らしい。漢字16文字がずらりと並んだタイトルと2800円という値段から、買うのに躊躇する人もいるかもしれないが、買って損した感じることは絶対ないだろう。手元にずっとおいておきたい一冊だ。

『大英自然史博物館珍鳥標本盗難事件』 カーク・ウォレス・ジョンソン著 矢野真千子 訳 化学同人/2800円