『「家庭料理」という戦場: 暮らしはデザインできるか?』

文化人類学者である著者が、戦後から現在に至るまで、さまざまな家庭料理のレシピを実際に作って考察しつつ、日本人の料理をめぐるさまざまな営みを追った本が、この『「家庭料理」という戦場:暮らしはデザインできるか? 』である。

本書は、一次資料であるレシピを分析し、実際に作って味わい、考察することで、戦後の改定料理の変遷を明らかにしようとする。高度成長によって、多様な食材が手軽に手に入るようになり、専業主婦のアイデンティティとして「手料理」に価値が置かれた時期を「モダン」、小林カツ代さんや栗原はるみさんといった料理研究家が、時短や手抜きを肯定しつつ、手軽な家庭料理や、外食めいた味を再現できるレシピを広めていった時期を「ポストモダン」、クックパッドなどによる家庭料理のデータベース化とランキングシステムに依存しつつも、より自由な形で個々人と家庭料理がつながる一方、「ちょい足し」レシピなど、既成の商品を家でアレンジし、それがネット上の口コミで広まるような現在の状況を「ノンモダン」とし、家庭料理の変遷を追うのだ。

そして「モダン」期以前は、生活圏の畑などで食材を調達して作る、栄養補給を主眼とする簡素な汁物や漬物を常食するのが日常であり、正月やお盆のようなハレの日にのみ、集落で集まっておいしいごちそうを作った。つまり、農村の日常食やハレの日のごちそうなど、モダン期以前の料理は、いわば「共同体の味」であり、それぞれの家庭が持つ「おふくろの味」、母親の『手作り」の料理という概念は、モダン期に生まれたのだ。伝統を感じさせる「おふくろの味」が、実は戦後の便利さのなかで生まれたものだという指摘には、目からうろこが落ちる思いがした。

私自身が料理家として経験した、ポストモダンからノンモダンの変化は凄まじいものだった。レシピの方向性、写真のクオリティ、撮影への時間やお金のかけ方、報酬体系まで、数年でガラリ変わってしまった。とはいえ、「手しおにかけた」料理を作ることを要求する、辰巳芳子さんの「モダン」なレシピは今でも人気が高く、「ポストモダン」な雑誌「栗原はるみ haru_mi」は未だに十五万部以上を発行している。

モダン、ポストモダン、ノンモダンの家庭料理は現在も同時に存在し、それぞれがそれぞれに影響を与えつつ、つながったり、分断したりしている。そして、その様相を本書は見事に動的に捉えているのである。

私はずっと、家庭料理というものに「苦しさ」を感じていた。本書の「おわりに」でも言及される『一汁一菜でよいという提案』(土井善晴著)がベストセラーになり、「この本で楽になった、救われた」という声が数多く届いていることは、いまだに多くの人が「家庭料理はこうあるべきだ」という呪縛、「手抜き」が忌み嫌われたモダン期的な価値観に囚われ、苦しんでいる証左だろう。

その一方で、自己承認を得るため、インスタグラムで毎日のように発信される過度に「素敵な料理」の写真に痛々しさを感じてしまうこともある。誰もが料理を発信し、ネット上で「つながる」ことが、新たな苦しさを生んでいる面もあるのだろう。

それでも、本書で描かれるノンモダンな家庭料理には、それ以前に比べれば、苦しさが希薄である。

「ちょい足しレシピ」などのノンモダンな家庭料理のありようを完全に肯定できない苦しさに身悶えながらも、その先に、苦しみから開放された本当に平穏な家庭料理があるのかもしれない、とも思うのである。

 

『「家庭料理」という戦場: 暮らしはデザインできるか?』
久保明教 著(コトニ社/2,000円+税)