『言語はこうして生まれる 「即興する脳」とジェスチャーゲーム』

言語には正しい言葉、正しい文法というものがある、とわれわれはつい考える。そして、一定の世代や地域において、乱雑な会話やスラングなどが使われると、それを「言葉の乱れ」と憂慮する。

しかし、本書『言語はこうして生まれる』は、「順序がまったく逆さま」と指摘する。すなわち、言語は乱雑で文法も適当であるのが本来の形で、そこから徐々に洗練され、やがていわゆる「正しい言語」というものが定義された、というのだ。

言語とは、誰かと誰かが意思疎通をしなければならない場面で生じた、と考えるのが自然だろう。その誰かと誰かが互いに共通言語を持たなかった場合、身振りや発声、表情などを駆使して、意思疎通を図ろうとするだろう。これが言葉の始まり、と著者は記す。すなわち言語はジェスチャーゲームから生じたものなのだ。あらゆる手持ちのものを駆使し、なりふり構わずなんとか相手と意思疎通を図ろうとするから、それは乱雑で非合理的で、正しいルールも数理的な規則もない、行き当たりばったりのものとなる。そしてそれが時間の経過とともに洗練され記号化され、さまざまなことを伝えられるようになり、普遍的な言語へと発達していくのである。

実際、子どもたちとジェスチャーゲームをすると、最初は一生懸命にリアルな動きを表現しているが、やがて動きが洗練されシンプルな「記号」になる。そしてその記号を組み合わせ、より複雑なことを表現できるようになるのだ。いわば仲間内だけで通じる新たな「ジェスチャー言語」が誕生するのである。

言語学には主に二つの潮流があるとされる。ひとつはノーム・チョムスキーによる普遍文法仮説、すなわち、すべての人間には共通する数理的に普遍的な文法が備わっているという説。もうひとつが、ジョージ・レイコフらによる認知言語学、すなわち人間には特別な言語本能が備わっているわけではなく、一般的な認知能力から言語が生まれたという説。前者と後者が対立や論争を繰り返しつつ、現代の精緻な言語学は発展してきたのだが、本書の仮説は、特にチョムスキーの普遍文法仮説に対して、まさに天動説に対する地動説のようなものである。正反対の視点を持ち、それゆえさまざまな疑問がシンプルに解決され、非常に説得力がある。本書はその意味で、間違いなく、新しい視点を与えてくれる本なのである。

聖書のバベルの塔の記述では、神が、もともと共通の言葉を話していた人間の「言葉を乱し」、人々が互いの言葉を理解できなくしたため、人々は世界に散らばった、とあるが、本書の説に従えば、実際の人類の歴史はまさにその「逆回し」だ。離れた地域に住む、互いに意思疎通が難しい人々が出会い、言語を編み出し、複雑な文明や文化、科学技術を生んだ。人類は言語でつながり、神をも恐れぬバベルの塔を建造している真っ最中なのだ。

『言語はこうして生まれる 「即興する脳」とジェスチャーゲーム』 モーテン・H・クリスチャンセン ニック・チェイター著 塩原通緒 訳