昨年の暮れに、「故西垣覚氏のお別れの会」という記事を見かけて、次はこれを書こうかなと思っていたら、新年の25日に予定されていた会は中止になったらしい。つくづく罪なやつである、コロナウィルス。

西垣さんは、旧東海銀行の頭取だった。東海銀行は、90年代の「都銀13行」のひとつですね。名古屋地盤の都市銀行。その後、旧三和銀行と合併してUFJ銀行となり、UFJ銀行は旧東京三菱銀行とくっついて、現在の三菱UFJ銀行に至る。

名古屋で東海銀行といえば、押しも押されもしない「殿様」だったわけだが、三和銀行と合併したことで、すっかり呑み込まれてしまい、往時の勢威は見る影もない。その三和銀行も、三菱にワンサイドで押し切られ、今や三菱UFJ銀行は昔の「三菱銀行」である。時の流れを感じずにはいられない。

西垣さんは、まだ東海銀行が「名古屋の雄」だった時代の「最後の頭取」だった。押しが強くて、重厚で、べたべたな名古屋弁で、ホルダー付きの煙草をやりながら、インタビューに応えていただいたことを、今でもよく憶えている。

90年代には、まだ煙草をやりながら、取材に受け答えしていた企業トップがいたのですね。今は、いないもんなぁ。

その頃、銀行業界では「三西」という言葉があった。西垣さんに、(毎度おなじみ)旧住友銀行の西川善文頭取、旧日本興業銀行の西村正雄頭取である。三人三様の強烈な個性があって、名頭取の声価も高かった。

この3人のうち、西垣さんは最も付き合いが薄かったものの、最も好きだった経営者である。

なにより、胆力がある。あけっぴろげで、些事にこだわらず、懐が深い。失礼を承知で言えば、東海銀行の頭取では「役不足」だと思ったものだ。

なにより感心したのは、「引き際」である。実力経営者は引き際が最も難しい、とはよく言われることだが、西垣さんはここが実にきれいだった。

かつて東海銀行には加藤隆一(故人)という「天皇」がいて、西垣さんはこの加藤さんに引導を渡す役回りを担った。相当な度胸がないとできないことである。下手に鈴をつければ、返り討ちにあいかねない。

で、よくあることなんですけど、天皇を追い出したトップは、自分自身が天皇になってしまうのですね。

実例を挙げるのもどうかと思うのだが、今の富士フイルムの古森重隆会長などは、その典型である。長らく「ドン」として君臨した大西實氏を放逐して、自らが取って代わってしまったという。

大西さんには思い出があって、インタビューの後でエレベーターまで見送ってもらった折、「忘年会も多いでしょう?沈没しないように気をつけてくださいね」と言われたことがある。沈没しそうに見えたのだろうか(笑)。兎にも角にも、「沈没」という言葉と独特の口調が妙に心に残っている。

閑話休題。

実力者が立場に恋々とせずサッと退場するのは見ていて気持ちがいい。本田宗一郎もそうだけど、なかなかできることじゃないです。

西垣さんで思い出したのだが、愛知県には地銀(地方銀行)が1行もない。全国でもここだけじゃないだろうか。その代わりと言っちゃなんだが、第二地銀は3行ある。ひとつの県に第二地銀が3つというのも珍しいですね。

名古屋銀行、愛知銀行、中京銀行とあって、名古屋銀行の加藤千麿会長は、銀行界ダントツの長期政権を誇っている。

今調べてみて驚いたことに、代表権は返上したとはいえ、いまだに「取締役会長」である。どうでもいいけれど、東海銀行の天皇も「加藤」、名古屋銀行も「加藤」だ。当地で加藤家ってのは名家なんでしょうな。もっとも、この2人が縁続きなのかどうかは知らない。

名古屋銀行の加藤会長は、引き際が悪いわけではなく、オーナー経営者なのである。社長に就任したのが1982年というから、そろそろトップ在任が40年(!)ということになる。銀行界に限らず、すべての上場企業を見渡しても、「40年」はいないのではなかろうか。

加藤さんにも思い出があって、インタビューの後でエレベーターまで見送ってもらった折、ポツリとおっしゃった。「私、”名古屋の虎”って呼ばれているんですよ」。ご本人はとても紳士的で、受け答えも柔らかくて、「虎」って感じがまるでしない。

聞けば、「寅年生まれだから」だそうな。失礼ながら、つい笑ってしまった。加藤さんも笑っていた(笑)。

で、何を書きたいのかというと、西垣さんの「お別れの会」が中止になったことで、思い出したことがあったのです。脱線に次ぐ脱線で、危うく忘れるところだったよ。

その昔、野村證券に肝胆相照らす仲の幹部がいた。前会長の古賀信行さんなども辟易とするくらい口は悪いが、キレっキレの逸材だった。いつぞや、この幹部が古賀さん(当時は社長)に面と向かって、「おまえはアタマ悪いから、社長やるくらいしか能がないわなぁ」とヘラヘラ言い放ったのを目撃したことがある。

この幹部は2011年に肺がんで亡くなった。まだ若かったのにね。「最後にもう一度、あんたと呑みたいなぁ」と電話で話したことが懐かしい。

なぜ「2011年」とハッキリ憶えているかといえば、彼の「お別れの会」も突然中止になったのである。忘れもしない、「3月11日」だった。

会場にも担当者にも全く連絡がつかなかったが、とりあえず中止だろうとは思ったので、行かなかった(それどころじゃなかったし、ね)。

その後聞いてみたら、やはり中止になったらしい。「仕切り直し」もなく、故人とのお別れはそのまま流れてしまった。「お別れの会?、勘弁してくれよ」という故人のドラ声が、今でもそのあたりから聞こえてきそうな気がする。