第52回 みずほの社長交代で思い出す、3行統合を追いかけた1999年の日々

相次ぐシステム障害によって経営責任を問われていたみずほフィナンシャルグループの新社長に木原正裕(今回もオール敬称略で失礼します)が就いた。

本来の就任予定は4月1日だったが、2ヶ月前倒しになったのは、前社長の坂井辰史が入院、出社できなくなったことによる。という事情は、マスコミは報じていないようである。さぞかし心労が積み重なっていたのだろう。

坂井とともに身を引くことになった会長の佐藤康博から数えて、みずほフィナンシャルグループの社長は3代続けて旧日本興業銀行出身者となる。したがって、下馬評では「興銀外し」の声も上がっていた。

となると、旧富士銀行か旧第一勧業銀行出身者という選択になるが、旧行意識が強すぎることが問題視されているみずほにあっては、こういう考え方はむしろ本末転倒ではないかと個人的には思う。

旧行バランスを排除し実力主義を徹底すれば、興銀出身者が有利になるのは当たり前だ。幹部人材に関する限り、3行の中では明らかに一頭地を抜いている。

余談になるが、一橋大学出身の学生はあえて興銀を敬遠したというエピソードもある。東京大学の俊秀がずらりと揃う興銀では出世は期待できないという計算だ。

そこで、銀行志望の一橋の学生は好んで旧日本長期信用銀行(現・新生銀行)を狙った。それでも興銀を選んだ一橋出身者は、それだけ能力に自負があるのだと言い換えることもできる。楽天社長の三木谷浩史が一橋→興銀だし、今回社長になった木原も同じ口だ。

みずほに対しては、かなりの思い入れがある。かつて籍を置いていたビジネス週刊誌の金融担当になったのが1997年。三洋証券が倒れ、北海道拓殖銀行が潰れ、山一証券が自主廃業に追い込まれた年だ。

翌98年には長銀が国有化され、金融システムは大揺れに揺れた。そこで、政府は99年3月、大手15行に対して7兆5000億円の公的資金を注入し、不良債権の抜本処理を迫ったという歴史がある。

公的資金注入と引き換えにして経営基盤強化を約束させられた大手銀行は合併に走らざるを得なくなった。「どことどこの銀行がくっつくのか」が金融担当記者にとっては最大のイシューとなり、日々の取材の眼目となった。

その口火を切ったのが、みずほである。興銀、一勧、富士の経営統合は金融界を震撼させた。

興銀と一勧が水面下で合併交渉に動いていることは、実はつかんでいた。しかし、富士が加わるとは正直言って想定外だった。今にして思えば、ツメが甘かったと反省するしかない。

もっとも、後々になって舞台裏を聞くと、やはり最初は興銀・一勧の2行で話は進んでいたのである。それがなぜ3行になったのか。キーパーソンは、杉田力之(旧一勧頭取=当時)である。

一勧と富士は、それぞれの子会社の信託銀行を合併させるなど、すでに業務提携に踏み切っていた。そこで、杉田は「山本さん(恵朗・旧富士頭取)には仁義を切っておきたい」と西村正雄(旧興銀頭取)に持ちかけた。

西村は難色を示したという。それもそのはずで、当時の富士は不良債権問題で最も「危ない」と評されており、共倒れになりかねないことを懸念したのだ。

しかしながら、3行統合となれば「日本ではダントツ、世界でも5指に入るメガバンク」の座を狙える。窮地を逃れたい山本が話に食いついてきたことから、西村もすぐさま考えを変えた。

これも裏話になるが、富士はすでに興銀に合併を持ちかけていたのだという。しかし、西村は一度は体よく断わった。「一緒に山一を背負わされるのはたまらない」という腹からだ。山一のメインバンクである富士には「抱き合い心中」の危惧が常にあった。

西村が難色を示したのはこういう経緯があったからでもあり、すぐさま考えを変えたのは山一というお荷物がなくなっていた(すでに自主廃業していた)からだ、とも言えるだろう。

ちなみに、西村・杉田・山本の三者三様のキャラクターを端的に表わす、面白いエピソードがある。3行統合にあたって、3人は直前に第一生命保険社長の森田富治郎に報告を入れた。3行ともに第一生命とは関係が深かったからだ。森田はたまたま不在にしていたが、そのとき3人はどうしたか。

西村「それでは、伝言をお願いします」
杉田「それでは、改めてご連絡します」
山本「それでは、折り返しをお願いします」

各人を直接知っているだけに、思わず笑ってしまったものだ。ドライな西村、礼儀を重んじる杉田、上から目線の山本。あまりによくできているので作り話ではないかと疑ってしまうほどだが、れっきとした事実である。

そう言い切ることができるのは、ネタ元が他ならぬ西村だったからだ(笑)。西村も他界して久しいし、そろそろ書いてもいいだろうという「みずほ」の裏話を、次回も続けてみたい。