第54回 みずほ統合を牛耳った「影の主役」、西之原敏州副頭取に恫喝された話

日本興業銀行、第一勧業銀行、富士銀行の3行統合が発表されたのが、1999年8月。他の銀行再編の動きも探りつつ、さっそく「世紀の大統合」の内幕を取材することになった。

最初に入手したのは、興銀が作成した「3行役員一覧表」である。頭取から取締役まで、全員の氏名・役職担当・旧行名が入社年次の順番に並んでいて、これはまことに重宝した。もちろん、対外秘であって、一勧・富士の役員ですら知らない内部資料だ。

こんな資料をつくること自体が「権力闘争」のイントロダクションなのである。同じ入社年次に、どんな役員がいるのか。まずは「ライバル」を知り、時には蹴落とすことで、新生みずほにおいて勝ち残っていかねばならない。

みずほにとって不幸だったのは、先ずは持株会社法制の遅れだった。と個人的には思う。3行を分割して大企業相手のみずほコーポレート銀行、中小企業・個人相手のみずほ銀行に再編することは、統合発表当初からの青写真だった。

しかし、当時の法制度下では、こうした分割再編が認められていなかったので、スタート時点では3行がそのまま持株会社にぶら下がるかたちになった。

それによって、3行間の闘争に拍車がかかったのは間違いない。レバタラを言っても致し方ないが、最初からみずほコーポレート銀行、みずほ銀行に再編されていれば、その後の経緯はだいぶ違っていただろう。

統合に際しての力関係をひと言で言えば、不良債権問題で市場にたたかれていた富士は明らかに分が悪かった。興銀も土俵を割る寸前まで行っており、イニシアチブを握っていたのは実は一勧だった。

その一勧を牛耳っていたのが、西之原敏州副頭取である。杉田力之頭取は典型的な「いいひと」だが、西之原は「陰湿」「策士」と評され、行内のみならず興銀・富士からも恐れられた。統合初期においては、西村正雄興銀頭取、杉田、山本惠朗富士頭取よりも、ある意味では西之原がキーパーソンだったと言っていい。

「(統合交渉において)興銀はサッカーをやっている。プレーヤーが勝手にグラウンドを走り回ってオーレオーレとやっている。一勧は野球をやっている。ベンチから逐一サインが出ていて、選手はそれをきっちり守ってプレーしている」と興銀幹部は自嘲していたものだ。

西之原はベンチからサインを出すだけで、統合交渉の平場で発言することはほとんどない。だからこそ、その寝技・裏技に対して、興銀・富士側は苛立ちを募らせ、不満・不安がエスカレートしていった。

西之原については、こんな思い出がある。部下の記者が書いた記事に対して、「誰が漏らしたんだ?」としつこく訊かれ、「言えるわけないじゃないですか」と突っぱねた。その場はそれで収まったが、後日呼び出され、「誰かわかったよ」と鬼の首でも取ったように言う。過去1ヶ月分の本店入館記録をすべて調べさせ、部下の記者が誰と誰に会っていたかを突き止めたのだそうな。

すべての入館記録って、大銀行の本店に1ヶ月でいったい何人の来客があると思います? おそらくは何万人という来客をすべてチェックし(「紙」の入館証だから手作業である)、情報源を突き止めようとする執念。ナチスのゲッペルスのように得体の知れない怖さを感じたものだ(ゲッペルスには会ったことないけど)。

ちなみに、そこまでして調べ上げた「情報源」は間違っていた。デリケートな情報を取るにあたって、本店でなど会うわけがない、入館記録に意味はありません。と申し上げたところ、即座に「嘘を言うな!」と怒鳴られた。つまり、まァ、そういう感じなのである。

興銀の「3行役員一覧表」と先に書いたが、正確には「4行」であった。一勧については「一勧D」「一勧K」に区別されていたからだ。Dは第一銀行、Kは勧業銀行の略称であり、「旧行の旧行」である。

第一勧業銀行の発足は1971年、それから実に28年もたっていたのだが、「D」と「K」には厳然たる壁があり続けた。その一勧出身である西之原が実権を握っている限り、3行の融和など進むはずもない。

2001年、みずほはCEO3人、副社長6人の計9人が総退陣し、経営刷新を図る。興銀出身の池田輝三郎副社長が「俺も辞める」と主張したことで、退任する副社長は3人から6人に増えた(バランス人事なので、興銀・一勧・富士の3行、3人が1セットである)。

追加で辞めることになった3人の副社長には西之原も含まれており、次期トップ候補の最右翼と目されていた池田の「覚悟の切腹」とも「抱き合い心中」とも言われている。

後を継いだ前田晃伸・みずほフィナンシャルグループ社長(富士出身)、斎藤宏・みずほコーポレート銀行頭取(興銀出身)がガッチリ手を握って一勧勢力の骨抜きを図ったのは、西之原による恐怖支配の反動に他ならない。

興銀・富士幹部は、退任後も西之原の影に怯えていた。しかしながら、身を引いた後はみずほ経営に容喙した形跡は見られない。「院政」ともなれば3行統合はさらに迷走しただろう。救いは、引き際の潔さだった。

みずほ統合の紆余曲折は、この後もごちゃまんと続いていくわけだが、筆者の印象に強く残っているのは、西之原退任までである。

最近のシステム障害によって、またぞろ「3行問題」がクローズアップされているものの、もはやそこは本質ではないだろう。すでに、現在の社員の半分以上は、旧行を知らないのである。3行問題を云々しても始まらない。

むしろ問題なのは、旧行を知らない現在の社員が「(メガバンクの中では)万年3位」という地位に甘んじ、いっこうにモチベーションが上がらないことにある。

思えば、興銀は「銀行の中の銀行」であった。富士は「東の横綱格」であり、一勧は合併によって一時は日本最大の銀行にのし上がった。3行それぞれにトップ銀行としての自負があったが、今のみずほにはそれがない。

総資産とか業務純益とか「目に見える数字」は、実はこうした「目に見えない資産」から生み出されるものであり、これからの経営陣が最も意識していかねばならないことであると感じる。

興銀との付き合いが長く深かったので、みずほという会社にも愛着があるせいか、なんだか真面目な話になってしまった。そういうわけで、次回はちょっと脱線してみたい。

「脱線が本線」みたいな連載ではあるけれど、書いてる当人はこれでかなり真面目に脱線しているつもりです。

 

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