第61回 オリックス・バファローズの優勝で思い出した「オリックス」と「宮内義彦さん」のあれこれ

何を書こうかなと迷っているところに、「オリックス、26年ぶり5度目の日本一 日本シリーズ」の速報が舞い込んできた。

5本の指を折って数えれば、野村證券、NTT、日本興業銀行(現みずほ銀行)、オリックス、それに「会社」ではないけれど郵政省(現総務省)あたりは、記者として最も深く食い込んだ「お馴染み」である。

そういうわけで、今回はオリックスにまつわる記憶をご披露しようと思う。

オリックスを担当したのは、入社して2年目のことだった。当時は「オリエント・リース」で、すぐにオリックスに社名変更し、間髪を入れずに阪急ブレーブスを買収したことで話題になる。

口さがないマスコミからは、「リース会社だけに、プロ球団も”リース”するんじゃないか」とか与太を飛ばされていたものだ。

球団買収の狙いは、オリックスへの社名変更に伴う、企業イメージ浸透にあったことはもちろんのことだが、長年にわたってグループを率いてきた宮内義彦さんの「野球好き」も隠れた動機としてあっただろう。

宮内さんは、すでに社長だったが、草野球チームの現役エースでもあった。筆者が勤めていた出版社も野球が盛んで、オリックス(プロじゃないですよ)と対戦したこともあり、宮内さんがマウンドに立ったこともあったのだという。

実際にバッターボックスに立った先輩記者に話を聞いたところ、「かなりのクセ球で打ち辛かった」とか。宮内さんのイメージにピッタリで、思わず笑ってしまった。

という話を、宮内さんとの雑談で持ち出したら、「どっちが勝ったんでしたっけ」と尋ねてきたので、「こちららしいですよ」と返したら、「負けるようなチームやったかな?」とつぶやいていたのが印象に深い。根が、負けず嫌いなのであろう。

宮内さんは、1960年に日綿實業(現双日)に入社したが、そのわずか4年後にはオリエント・リース設立に関わっている。日本におけるパイオニアであり、「リースのことなら、俺が一番詳しい」という自負心が強い。

加えて、昭和10年生まれとは思えない、先進的な経営センスを具えていて、話をうかがうのが楽しみでならなかった。GNN(義理・人情・浪花節)とは無縁の御仁である。考え方が極めて合目的的・合理的なのだ。
今では当然のことだが、1990年前後には新鮮だった話を2つだけ挙げよう。

宮内さんは「売上高」を全く見ていなかった。重視していたのは「純利益」である。売上高を嵩上げするために利益を減らすような施策は一切採らなかった。

損益計算書では、売上高が一番上にあって、各種経費を差し引き、最後に純利益が残る。オリックスの決算は、「上からでなく下からつくる」と言われていた。純利益を伸ばしていくことが至上課題であり、「減収増益」もザラだった。売上高至上主義による「増収減益」の大企業が多かった時代に、である。

もうひとつは、「連結経営」である。1980年代後半のオリックスはプロ球団のみならず、およそ本業のリースとは関係ない企業を買いまくっていた。これまた「M&A」が定着していなかった時代に、である。

そして、買収した企業を「親子上場」のかたちで株式公開することはなかった。理由を聞いたら、「もったいない」と答えてきたことを思い出す。

親子上場は、「関連会社の稼ぎの一部を株主に譲り渡すことであって、それはもったいない。連結経営でオリックスグループの純利益を増やしたほうが、企業価値は向上する」という理屈である。

くどいようだが、これも現在では当たり前の考えだ。しかし、1990年代にあっては当たり前ではなかった。筆者自身、この言葉の真意が腹落ちしたのは、だいぶ後になってからのことである。

オリックスという会社は、「社長室」(今でもそういう名前かどうかは知らないが)に権力が集中し、グループ全体を回している。

宮内さん自身、社長室長を経ているし、社長室には精鋭が集められていた。したがって、記者としてオリックスに食い込むということは、「社長室」とのコネを太くするということでもある。

みなさん一線を退いているとはいえ、さすがに実名は出せないものの、歴代の社長室メンバーとは深く付き合ってきたし、何かとお世話にもなった。いろいろ興味深い裏話も聞いた。

ふたつだけ、打ち明けておくことにしよう。

社長室でしのぎを削るライバルが2人いた。入社年次はどちらも同じ1980年で、将来の社長候補と目されていた。

ひとりは、関西出身。もうひとりは、典型的な慶応ボーイである。同じ社長室とはいいながら、キャリアもキャラクターもずいぶんと違っていて、この2人を競わせる宮内さんの「人事」の妙には感心させられたものだ。
宮内さんは、神戸出身である。ある夜、「関西出身」と呑んでいて、「うちの会社はね、やっぱり関西なんやわ。経営会議も関西弁じゃないと調子が出えへん」と言ったことがあった。ああ、これは「慶応ボーイ」を意識しているんだなぁと感じた。

その慶応ボーイからは、ヒラの執行役員から常務への昇格が決まった時に電話がかかってきた。「常務になるよ」と言った後、ちょっと興奮した口調で「”関西出身”(実名)は、(常務に)ならないよ」と続けた。

お互いの足を引っ張るようなことはなかったが、いつだってお互いを強く意識し、こいつだけには負けられないと切磋琢磨していた。ライバルって、いいものだな。と思ったものだ。

もうひとつは、宮内さんの社長秘書から聞いた話。この方も社長室メンバーで、関西出身と慶応ボーイよりは年かさである。戦略眼、営業力というよりは、業務全般を仕切っていく実務手腕が買われていて、宮内さんからの信任も厚かった。

社長秘書になった当初、困ったことが2つあったのだという。ひとつは、国会議員に対する政治献金、パーティー券購入などの配分。もうひとつは、社長専用車で宮内さんと2人きりになったときに、どんな話をすればいいのか(もしくは黙っていたほうがいいのか)という問題だ。

政治家については、「秘書になったばかりで勝手が分かりません。とか言って、この際みんな断わっちゃえば?」と宮内さんから言われ、絶句したという。まさかそういうわけにもいかないので、どう処理したのか、肝腎なところを聞き忘れた。聞いても教えてくれなかっただろうけれど。

社長とサシになったときは、どうしていいかわからず、社宅のゴミ出し問題を切り出したそうな。社宅で一軒だけゴミ出しルールを守らない家がある、って本当にどうでもいい話である(笑)。よほどに持て余したのだろう。

宮内さんはフンフンと頷きながら、話題を変えた。それから、いささかの沈黙があって、「さっきの社宅の話な」と蒸し返してきたから、秘書のほうが驚いた。いかにも細かいところにまでこだわる宮内さんらしいな、と思ったエピソードである。

ちなみに、この3人ともオリックスの副社長にまで昇格したが、こんな話を連ねていけばキリがない。とりあえず、26年ぶりの日本一、おめでとう存じます。