第65回 たったひとりの同期と暴走し、競争し、いがみ合い、そして別れることで、「人生」を考えさせられた話

今回の原稿を書き出す腹を固めるのに、だいぶ時間がかかった。書き出した今も、まだ書いていいものか迷っている。

あまりといえばあまりにも個人的な事柄であり、単なる思いでもあり、他人様に読んでいただくようなものではないからだ。

実を申せば、先月に書こうと思えば書けたことだった。しかしながら、かくなる逡巡があって、一度は見送った。

それでも、やはり書いておかなければならないと思う。

さる1月、たったひとり同期で入社した男が死んだ。バブルの胎動が起こってきた時代で、出版社の景気もよく、広告・販売などは中途採用を繰り返し、したがって厳密に言えば同期は10人以上もいる。

だが、新卒採用されたのは2人だけで、2人ともに同じ週刊誌編集部に配属された。だから、筆者にとって、真に同期と呼べるのは彼奴しかいない。

会社を辞めて十数年、まったくの没交渉であり、近況を知ることもなかった。訃報によれば、肝硬変を患って、何年も闘病していたらしい。

大酒飲みでヘビィスモーカーでもあったから、死ぬなら肺がんか肝硬変だったろうなと妙に納得させられたものだ。

筆者とは同じ大学を卒業したが、在学中には面識はない。年齢は向こうが1つ上であるが、定年にも満たない若さである。

彼奴のことは、以前にも書いた(第12回 新入社員の「明日なき暴走」

「明日なき暴走」の中身については重複するところが多いので、ここでは省略させていただくとして、最後の一文には、こうある。

”野郎はまだ会社を辞めてはいないはずだ。元気にやってるのかなぁ。相変わらず暴走していてくれればうれしいとも思う。”

2人揃って、「会社史上最悪の新入社員」だとよく言われた。出身大学は、その出版社では最大勢力だったにもかかわらず、2人が入社してから、その大学からは何年も採用されなかった。人事部が懲りたのだろうと嗤われていた。

国語や英語といった素養は兎も角、一般常識や人当たりのよさでは、彼奴にはとても歯が立たなかった。

ネタを発掘する嗅覚、取材先に食い込む力量にも優れていて、2人揃って評価(もっぱら勤務態度である)はサイテーだったが、そんな劣等競争においてもこちらが負けていたことは間違いない。

2人だけの同期である。どうしたって、相手には負けられないという気持ちが働く。そして、彼奴に負けているという劣等感が、20代半ばまでの筆者には確かにあった。

そんな関係が、30歳の声を聞くころには、主観的・客観的にも逆転していく。

筆者は、30代半ばで副編集長に昇格した。当時としては、かなり早いほうだった。

誰に対しても遠慮するところがなかったので、「厄ネタ」をどんどん押し付けられた。他の副編集長が敬遠する、年かさの記者を部下としてつけられることになったのである。

彼奴もまた厄ネタのひとりであり、筆者の部下になってしまった。おたがいが決して望んでいなかったにも関わらず。

勝ったという優越感などは、まるでなかった。日々の仕事に追われ、そんな余裕もなかった。しかし、彼奴にとっては拭いがたい屈辱だったと思う。

彼奴の立場に立たされれば、その時点で会社を辞めていたかもしれない(とどのつまり、別の理由で辞めることにはなったが)。

半期に一度、目標管理制度の面談をする。半期の成果をレビューし、新たな目標を設定し、それをまた検証し、というサイクルを繰り返していくのだ。

たった2人の同期が、上司と部下に分かれて対峙するのである。気まずいなんて感情では済まない。おたがいに最初から開き直り、ホンネをぶつけ合うしかない。会社勤めの何が嫌かと言って、これほど嫌なことは他にはなかった。

誤解していただきたくないのだが、これは自慢話などではない。自慢話に聞こえるんだろうなと思ったことが、書くのを逡巡したひとつの理由でもある。

では、何が書きたかったのか。

繰り返しになるが、スタートラインでは彼奴はかなり先を走っていたのである。そんな状況が変わるまでには、いくつもの転機がもちろんあった。

それをいちいち振り返って思うことは、ひとつひとつの転機は決して大げさな、ドラマチックなものではなかったということだ。

ほんのささやかな条件、取るに足らない出来事がいくつも積み重なって、人生は軌道修正がきかなくなるまでに変わっていく。

極めてシンプルで、何の面白味もなく、予測もつかない帰結に追い込まれていく、そんな人生を多くの人々が等しく送っていることの意味について、改めて考えさせられた。

若いころは、毎日のように呑み歩いていた。あの世とやらがあるならば、一度くらいはまた呑もう。