第69回 花に嵐のたとえもあるぞサヨナラだけが人生だ、30年以上もコンビを組んできた「カメラマン」の死

自分自身がそういう年回りになったということなのだろうが、このメルマガにも「追悼記事」を書く機会が増えてきた。

「次は我が身」の心境である。血圧は200前後で降圧剤も飲まず、日々大酒を喰らい、25年も人間ドッグはおろか健康診断も受けていないようでは、今日あしたのことであっても不思議はない。

そもそも、50歳まで生きられるとは本気で思っていなかった。それが、来年には「還暦」である。よくもまぁ、と感慨深いものがある。

会社を辞めたのが、46歳の年だった。どこかで書いたような気もするが、週刊誌の仕事というものは、「全力で100メートル走ったら一息ついて、すぐまた全力で100メートルを繰り返しながらフルマラソンを走る」ようなもので、土台が長生きできるものではない。

週刊誌の仕事をやめたおかげで生き長らえているとするならば、それが自分にとって望ましいことなのかどうか、いささか考えさせられるものがある。

先月、週刊誌の仕事でずっとコンビを組んできたカメラマンが彼岸に渡った。数えたこともないけれど、少なくとも30年以上の付き合いにはなるはずだ。

享年70歳というから、筆者とはほぼ一回り違う。そんな年の差を感じさせない、気さくな人柄だった。

以前、このメルマガで「カメラマンの撮影経費をン百万円溜めて苦情を喰らった」というエピソードを紹介したことがある。何を隠そう、そのカメラマンこそが彼なのだ。

手前勝手で恐縮だが、「友達付き合い」をしているという甘えが為せる業でもあったのだろう。「ちょっとしたボーナスじゃん。経費が出たら一杯おごってよ」と言ったら、「ふざけるな」と電話の向うで笑っていた。

彼と深く付き合うようになったきっかけは、「酒」である。

ずっとずっと昔、大田区の零細工場地帯が壊滅の危機にさらされているという記事を書くために、現地を歩いたことがあった。アポなしで、片っ端から工場に飛び込むのである。

カメラマン(S、としておこう)に撮影をお願いし、待ち合わせ場所を決めた。Sは30分近く遅刻してきて、「ごめん!二日酔いで死にそうだ。とりあえず、昼めし食ってからにしよう」と言うもんだから、近くの蕎麦屋に入った。開口一番、「おばちゃん、ビール1本ね!」。こうなると、こちらも呑まないわけにはいかない。

1本では当然済まなくて、3本4本空けたところで店を出た。出たところで、首にぶらさげていたカメラ(さすがカメラマンで、仕事以外でもいつもぶらさがっていた)のファインダーをのぞきながらグルっとパンさせるのである。視線の先にあったのが、超ミニスカで自転車に乗っていたネエチャンだったから、思わずズッコケた。

もっとも対手のことばかりは言えない。米沢(山形県)にふたりして取材に行ったときは、こちらが酷い二日酔いで、道中ずっと新幹線のトイレから出られなかった。

駅に降り立った瞬間、Sが言った。「二日酔い退治にはラーメンがいちばんだよ!」。で、地元では有名らしいラーメン屋に飛び込み、「おばちゃん、ビール1本ね!」という流れに相成ったのは、皆さまのご想像通りだろう。

中露国境の町、満州里(マンチョーリ)への取材行は、おそらくこれからも忘れられない思い出となるに違いない。

上海出身の美人人妻通訳を交えた3人の珍道中は、これだけで軽くメルマガ3本分くらいにはなるのだが、ハイライトは初日の夜だった。

当地では一等のホテルという触れ込みだったが、日本で言えば場末の温泉旅館といった感じで、ステージのバンド演奏やらショーを眺めながら、3人でウォッカをがぶ飲みし、「明日も早いから、おやすみ!」と各人部屋に帰った。

しかしながら、中露国境なんて、この先生きていても二度と来られないかもしれない。中国側の町ではあるが、ロシア人が多いので、夜の巷にも(読めないけれど)ロシア語の看板がわんさかあって、おいでおいでと手招きをする。

町に繰り出し、ロシア客相手らしいバーに入った。バーテンダーは通訳に劣らぬ美人のロシア人でそれはいいのだが、ふっと店内を見渡すといたのである。Sが。おたがいあれっという顔になり、ふたりしてたまらず噴き出した。

それからというもの、彼との電話、メッセージのやり取りの最初のひと言は決まって「マンチョーリ!」である。「マンチョーリ!」「マンチョーリ!」。傍で聞かれていたら、アタマがおかしいんじゃないかと疑われること請け合いの掛け合いだ。

ズッコケてばかりだったが、腕には確かなものがあった。かつて、インテルの伝説の経営者、アンドリュー・グローブにインタビューした時、記事に掲載された写真を見たアンディが「俺が知らない、俺の顔をしている」と気に入って、わざわざ編集部に「1枚いただけないか」と言ってきた。「せっかくだからサインしとけば」とSに言ったら、まんざらでもない顔をしていたことを今でも思い出す。

近年になって酒好きが高じ、自宅の近所にバーを出した。と聞いたときには驚いた。「自分で全部呑んじゃうんじゃないの?」とからかってるそばからコロナがやってきて、それでも店は潰れず常連に支えられて続いていた。大したものである。人柄でしょうね。

伝え聞いたところでは、酔っぱらってすっころんで頭を強打したのだという。それからわずか1週間で世を去ったのだが、「葬式は身内で」とか遺志を語ってもいたそうだから、意識不明ということはなかったろう。彼らしく、さっぱりとした、いい死に方だったと思う。

”この盃を受けてくれ
なみなみと注がせておくれ
花に嵐のたとえもあるぞ
さよならだけが人生だ”

マンチョーリ、と呼びかけることももうないのだと思うと、今、妙にさみしい。