第75回 年の瀬恒例のビジネス週刊誌「総予測特集」、「当たるも八卦当たらぬも八卦」のお寒い実情

読者の皆々様にあっては、本年も実り多い年でありますよう。筆者もノンシャランと馬齢を重ね、うっかりしているうちに「本卦還り」である。嫌になっちまいますねェ。

嫌になっちまうで思い出したのだが、ビジネス週刊誌も月刊誌もネットメディアですら、年の瀬になると「総予測」とか「大予測」とかいう特集を組む。

売れるから毎年やるのだが、個人的には「なんで売れる」のかが実に不思議だった。

というのも、当たらないんだ、これが。「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」というが、撃てば撃つほど当たらない(笑)

いつの師走かは忘れてしまったが、現役の頃ちょっとした気まぐれで、前年の総予測に関する「当たりハズレ」を調べてみたことがある。

読者にはとても言えないくらいの「惨敗」であった。株価も金利も為替も地価も、何もかもが大ハズレ。当たりはせいぜい2割そこそこで、プロ野球の打者なら減俸間違いなし。悪くすれば、クビだろう。

ライバル誌だって、そんなに変わりはない。はずだが、こちらは実際に調べてみたわけではないので、確としたことは言えない。総予測の正確性について、雑誌ごとに検証してみると面白いのではないか。

そういうわけで、数ある企画の中でも総予測くらい意味のない特集はないと毎年のように考えていた。「思い切ってやめよう」と編集会議で提案したこともある。それでも、売れるものだからやめられない。

雑誌に限らずメディア全般に言えることだが、その存在価値をひとことで表現するならば、「新しい」ということだと思う。

新しいニュース、新しいデータ、新しい物の見方。何でもいいから何か一つでも「新しい」がなければバリューがない。

しかしながら、「新しい」だけでも足りない。読者にとって、「役に立つ」ものでなければならない。新しくて、役に立つ情報を発信し続けていくことこそが、メディアの役割であるべきだ。

総予測という特集は使い古され使い回され、結果もまるで当たらない。新しくもなければ、役にも立たない。そんな企画を垂れ流すことについて、情報の送り手はもっと真摯に考えなければならないのではなかろうか。

編集会議で「やめよう」と提案した時には、「予測なんて”当たるも八卦当たらぬも八卦”なんだから、結果にこだわる必要はない」という意見も出て、そんなもんかとも思ったが、そんなもんじゃないだろうと今でも思う。

総予測と同じく「思い切ってやめよう」と提案してみたテーマとして、ビジネス週刊誌でもおなじみの「営業特集」がある。

一度だけ営業特集を担当して痛感したことだが、腕っこきの営業マンには大きくぶった切って2つのノウハウしかない。

1つは、「誰でも真似できるが、誰にも真似できない」種類のノウハウだ。新規開拓のために、月3000枚の名刺をばらまくみたいな話である。もう1つは、「誰も思いつかないし、誰もやっていない」独創的なノウハウだ。

前者のノウハウは、結局真似できそうで真似できない。後者のノウハウは、タネ明かしをしたらそれまでだから、肝腎なところは取材できない。出来上がった特集は、目新しくもなく、読者の役に立つものにもならない。

にも関わらず、営業特集もそれなりに売れるものだから、これまた総予測と同じく「やめられない」

売れる特集については、二度三度と深掘りするのがビジネス誌の常道であり、これを否定するものではない。

だが、「新しい」「役に立つ」という価値観を中心に据えてかからないと、売れる特集は「売れる」というだけで何度でもやるという思考停止状態に陥る。そこが、怖い。

週刊誌の場合、年に50本の特集がある。50本すべて違う特集をやると決めてかかる年があってもいいのではないか。

これは、はっきり言ってキツい。新しい企画を考えるだけでキツい。瞬間的には売り上げも落ちるに違いないけれど、企画力というインナーマッスルを鍛えるためには、そのくらいの覚悟が必要だとも思う。

記者を辞めて10年以上たつが、書店に並んでいるビジネス誌の表紙を眺めていると、つくづく十年一日である。

活字不況で雑誌が売れないというし、それはそうでもあろうけれど、特集企画のマンネリにも大きに原因があるのではないか。少なくとも、雑誌づくりの当事者には、安易に「活字不況」という言い訳に逃げ込んで欲しくはない。