第134回 読書のジレンマ

良い季節になってきたので、毎日のように散歩をしている。
散歩のおともはスマホのオーディオブックだ。
本を聴きながら散歩をしていると、なぜかコーヒーを飲みたくなる。
で、途中でコンビニに寄ってホットコーヒーを買うのが毎日のルーティンとなった。

店員さんにレギュラーサイズのホットコーヒーを頼み、レジのパネルから「バーコード決済」を選ぶ。
それから、スマホのPaypay画面を提示して、バーコードリーダーで読み取ってもらうのだ。

いつも同じコンビニなので、店員さんとはさりげなく顔なじみとなっていく。
いつの間にか、私がレジに近づくだけでコーヒーカップが差し出され、私がレジパネルにタッチすると同時にスマホのバーコードをリーダーで読み取ってくれるようになった。

そして、先日ついに、レジの前に立っただけで、スマホのバーコードを読み取られるようになった。
すっかり満足して、その場を立ち去ろうとしてコーヒーカップがないことに気づいた。

「ホットコーヒーのレギュラー・・・」と久しぶりに声に出してみる。
店員さんはキョトンとしている。
この客は何を言っているのかという眼をしている。
私もなぜか動揺して、自分の手を見る 。
無意識のうちにカップを受け取っていたのでは・・・?
だが、もちろんカップはない。
私と店員の間に妙な空気が漂い始める・・・。
もしや、これは今まで聴いていたオーディオブック『名人伝』(中島敦著)のせいなのか(いや、そんなはずはない)。

オーディオブックを聴きながら歩くと、こんなことが時々起こる。
紙の本では起こらないのに。
歩きながら、本を読むことはないので、当然と言えば当然だが。
でも、二宮の金さんなら経験してるかもしれない(って、二宮金次郎を「遠山の金さん」みたいに)。

歩き読書の人は見かけなくても、歩きスマホの人はよく見かける。
歩きスマホでコミックを読んでいる人も少なからずいるようだ。
歩きコミックは読書の範疇に入るのだろうか?
迷うところだ。
電子書籍専用端末(例えばkindle)を歩きながら読むと、歩き読書と言えるかもしれない(でも、kindleでコミックを読む人が多いのも事実だ)。

逆にオーディオブックを歩かずに聴くのはどうだろう。
書斎で深々とソファーに身を委ね、高級オーディオのスピーカーから流れる音声(朗読)をゆったり聴く。
紙の本と同じように心地よい眠りに誘ってくれそうだ。

20世紀の時代からカセットブックのようなオーディオブックもCDーROM版の電子ブックも存在していたけれど、それは特別な目的やニーズを満たすためのもので、どこの書店でも買えるわけではなく、しかも高価だった。
現代ではインターネットの浸透により、書籍が音声データやテキストデータとして簡単に手に入るので、紙の本だけが書籍の内容を伝える手段ではなくなってきている。

それらはオーディオブックや電子書籍として、サブスクリプション(定額読み放題)契約をすることにより手軽に利用できるのだ。
さらに電子書籍は専用端末の利用でメモの保存もできるし、オーディオブックは再生速度を変えて速読(速聴?)もできる。

私はオーディオブックを2.25倍速で聴いている。
かなり速く聴いてると思っていたら、知人が3.7倍速で聴いていた。
そんな速さで内容が聞き取れるのかと疑問に思うところだが、知人は「音の波を直接脳で解釈するんだよ」と不適な笑みを浮かべるのだった。
最近ではオーディオブックと関係なく常に何かが聞こえてるらしい(何をキャッチしているのかは不明だが)。

『このように変容し続ける読書と我々はどう向き合っていけばいいのだろう??』なんて難しいことを考えることもなく、私はオーディオブックを聴きながら散歩を続ける。

『生物から見た世界』(ユクスクキュル/クリサート著)という本を聴いた。
導入部から興味深い。
ダニは視覚を持たないのに、大きな木に登って、木の下に人や動物などの哺乳類が通ったら、哺乳類に向かって落下するという。
視覚がないのになぜ哺乳類が来たのがわかるのか?
ダニの「カンセカイ」に哺乳類の発する微量な酪酸の匂いが影響を与えるらしい。
「カンセカイ」?
耳で聴くだけではよくわからないが、「カンセカイ」は何度でも出てくる。
この本の主題のようだ。
生物の感覚の世界なので「感世界」なのかなと思いながら、聴き続けるがどうもスッキリしない。
散歩を切り上げて、書店に向かい『生物から見た世界』を買った。
(「カンセカイ」は「環世界」だった・・・)

話は変わって、昨年暮れのこと。
話題の『サピエンス全史』(ユヴァル・ノア・ハラリ著)が文庫本になったので、早速(紙の本を)買って読み始めた。けっこう面白い。
上巻を読み終わり、すぐに続きを読もうにも下巻はない(って、上巻が面白かったら、下巻を買おうなんてケチな料簡を起こした結果なのだが)。
オーディオブックを検索すると『サピエンス全史』下巻があった(もちろん上巻もあった・・・。文庫本に気を取られた自分が悔しい・・・)。
その結果、上巻は眼から、下巻は耳から読む(聴く)ことになった。
うーん、不思議な感じ。
眼からの情報と耳からの情報は、処理する脳の場所が違うのかしらん。
別な本を読んだ気持ちになった。
で、結局、下巻も文庫本を買った。。。(買っても読まないのに・・・)

またまた話は変わって、本屋大賞だ。
今年の大賞は『成瀬は天下を取りにいく』(宮島未奈著)に決定した。
先月のイリジンの【今月の一冊】で紹介されていて、気になっていたところだったので、オーディオブックで早速聴いてみた。
女子中学生(その後高校に進学する)が主人公で、若者向けの小説なのかなという先入観があったが、唯一無二の個性的な主人公の魅力で最後まで楽しく一気に読めた、いや、聴けた。
オーディオブックのいいところは(時にわるい場合もあるが)、ナレーター(本の読み手)の声が本の輪郭を明確にしてくれるところだ。
この本では成瀬のちょっと変わった性格が眼で読むより伝わってくる(って、眼で読んでないので、勝手に想像してるのだが)。

面白かったので、2作目の『成瀬は信じた道をいく』を続けて聴こうとしたら、配信日は「2024年7月5日」だった・・・。
そんなわけで、今すぐ手に入る電子書籍を買おうか、紙の本を買おうか、真剣に悩んでる。
(書店に行くと2冊まとめて買ってしまいそうだし・・・)

現代の読書はこのように悩ましいのだ。
ソクラテスもプラトンもニーチェもシルレルもこんなことで悩むなんて想像できなかったに違いない(なんのこっちゃ)。