第94回 大阪・関西万博で見かけた「マツケン」、稀代の実力社長「松澤建」さんの思い出
大阪・関西万博に行ってきた。平日だったので、これでもすいている方ではあったのだろう。しかしながら、人気の展示はほとんど予約で埋まっていたり、何時間も行列していたりで、ほとんど見物することはできなかった。
それでも、丸一日かけて14のパビリオンを訪れ、5カ国で飲み食いし、「目玉」である大屋根リングも一周した。余談だが、翌日には1970年大阪万博のアイコンである「太陽の塔」内部も見学し、その素晴らしさに圧倒された。
太陽の塔は、当初は万博終了後に撤去される予定だったが、住民等の陳情もあって保存されることになった経緯がある。大屋根リングも解体されるらしいが、後世に遺すべきであろうと強く思う。税金を使うだけの(すなわち、公益に資するだけの)保存価値は間違いなくある。1周の3分の1ずつを清水建設、竹中工務店、大林組が分担したそうだが、それぞれの「仕事」に個性があって、見比べるのも楽しいものだ。
それはともかく、あるパビリオンでは「万博漫画展」なる展示があって、そのご挨拶には「万博漫画展実行委員会 実行委員長 松澤建」という名前があった。「松澤建」という名前はそうそうあるものでもないだろうから、筆者が存じ上げている「松澤建」とおそらくは同一人物であろう。調べれば簡単に分かることではあるが、面倒なので同一人物ということにして、松澤さんに関する思い出を書いてみたい。
松澤さんは、初めてお会いした時は日本火災海上保険(略して、日火=ニッカと呼ばれていた。ウイスキーとは関係ない)の社長だった。業界での通り名は、「ニッカのマツケン」である。もっとも、松平健のようにサンバを踊る姿を見たことはない。
当時のニッカは、損保業界再編の台風の目だった。業界序列では、1位東京海上、2位安田火災、3位三井海上、4位住友海上と来て、5位がニッカである。ニッカが、大東京火災とか興亜火災あたりを巻き込んだ大合併を仕掛ければ、業界上位に食い込むことができる。そうなれば、財閥系の上位損保も再編に動かざるを得ない。
そういうわけで、マツケンにはよく会いに行ったのだが、初めて取材するときに予め四季報でニッカの欄を読んで驚いた。社長がマツケン、あとは全員がヒラの取締役なのである。社長1人、取締役が20何人という役員構成なのだ。社長の下が取締役という、異例かつ究極の「フラット型組織」である(笑)。大企業でなくても上場企業であれば、普通は社長がいて副社長、専務、常務、取締役と段々になっているものだ。
これだけで、マツケンがどんな人物か推察がついた。剛腕で鳴らすワンマンなのだろう、と。事実、そのとおりの御仁だった。損保業界、いや上場企業全体を見渡しても、マツケンほどの実力社長はほとんどいなかっただろう。彼の腕力があれば、業界ダントツの東京海上を対手にしても五分に渡り合ったと思う。
今調べてみたら(こういうことは調べなければならない)、1998年にニッカ社長に就任し、2001年に損保業界再編の先陣を切って興亜火災と合併。初代の日本興亜損害保険社長となったとある。初会がいつのことだったか憶えていないが、1998年以降であることは間違いない。そして、「日本興亜社長」としてのマツケンにお目にかかったことも確かにないので、たかだか2~3年程度のお付き合いだったことになる。
にもかかわらず、いまだに鮮烈な印象が残っている。
マツケンには、2度、「躍金楼 」(てっきんろう)という新富町の料理屋でごちそうになった。店名は山岡鉄舟の漢詩にちなむもので、建物は国登録の有形文化財に指定されている。風情があっていいものである。マツケンは、会食となると躍金楼一筋だったようだ(どうでもいいけど、「てっきんろう」では変換されないので面倒くさい)。
初見の客には、女将自ら紙芝居を使って、躍金楼の歴史を説明してくれる。初めてうかがったときには、興味深く御説を承った。酒食も楽しんで、「次回はこちらで裏を返します」と言ったのだが、マツケンは聞く耳を持たない。そういうわけで、2度目も同じ店で同じ紙芝居を見ることになった(笑)
女将は憶えていたはずだが、マツケンはどうも違っていたようだ。「えっ、これ2度目?」と言って、「ま、いいじゃないか。せっかくだから見ようよ」。彼自身は1万回くらい見ているはずなのである。「2度目でもいいから見ようよ」とは、なかなか言えることじゃない。そんなマツケンだから、女将もさぞかしお気に入りだったことと思う。ワンマン社長にはよくあることだが、巧まずして人の気持ちを惹きつけるのだ。
酒席で聞いた、忘れられない話を2つばかり紹介しよう。
マツケンは、東南アジアに赴任していたことがある(マレーシアだったと思うが、あやふやである。ついでに言えば、東南アジアに赴任していたこと自体も記憶違いであるかもしれないので、ご容赦をいただきたい)。そこで、現地法人幹部の黒人(これまた現地法人幹部だったのか提携相手だったのか顧客だったのかの記憶が定かではない。重要なのは「黒人」だということだ)から、「俺を抱きしめることができるか?」と迫られたのだそうな。
男同士でどうこうという話ではなく、「黒人である俺と差別抜きで付き合えるのか?」という意味である。マツケンは、彼をギュウっと抱きしめただけでなく、ほっぺたにブッチュウっと熱いキッスをぶちかました。「おい、何をする。離せ、離してくれえっ」と絶叫されたという。可笑しくって可笑しくって、その場で笑い転げた。
もう1つは、横浜支店長時代のことである(これは横浜で合っていると思う)。右翼関係者が難癖をつけてきたので支店長室に連れ込み、神棚に向かって木刀を振りかざし(神棚とか木刀があるのが、そもそも凄い)、「先ずは、天皇陛下に向かって礼!!!」とやったのだという。すっかり毒気を抜かれた右翼関係者は早々に退散したというから、大した肝っ玉だ。
もっとも、こう言っては何だが、マツケンのたたずまいはカタギというよりは「その筋」に近いものがあった。ゴツくて、コワい。そんな見てくれの中に、人なつっこさ、優しさ、包容力といった真の人柄を滲ませる。
ちょうど同じころ、銀行再編が一大テーマとなり、損保業界にまで手が回らなくなってしまった。大好きだったマツケンとも永の御無沙汰になってしまったことが、本心より残念でならない。
日本興亜社長在任時に、青山学院理事長となった。これまた失礼を承知で言えば、マツケンが青山学院出身という感じはしないので、ちょっと驚いたことを憶えている。もっとも、2013年には全国警察官友の会会長も務めたとウィキペディアには記されているので、こちらはイメージにぴったりだ(笑)
今年、数え年では米寿を迎えたそうで、まことにおめでたいことである。できれば、ご存命のうちに「今度こそは裏を返したい」とも思う。蛇足を連ねると、ここに書いた話は正真正銘「ここだけの話」である。他言は無用に願います。