7月14日に発表された、第165回芥川賞は、石沢麻衣『貝に続く場所にて』と李琴峰『彼岸花が咲く島』が受賞した。ただし、今回の取り上げるのは、これらの作品ではなく、同じく芥川賞候補となっていたくどうれいんの『氷柱の声』だ。

くどうは、高校1年生のときに、盛岡で東日本大震災に被災した。家族も家も無事であり、例えば津波ですべてを失った人に比して「失わなかった被災者」というもどかしさややり場のない気持ちを抱いて生きてきたという。今回の執筆に際して、20代の7人に震災に対する思いを取材し、それを反映させ、著者を思わせる主人公と友人たちの対話という形で作品に仕上げた。

私自身が何より心惹かれるのは、それが震災を経験した若い人たちの生の声が、理屈ではなく、皮膚感覚で伝わってくるところだ。私は読み進めるうちに、ふっと、かつて会った、福島県飯舘村の中学生たちの顔が思い浮んできた。これは、まさに彼ら/彼女らの声なのだ。他の誰かより不運でありながら、なおかつ別の誰かより幸運だったことに負い目を感じ、自らが震災の美しい物語として消費されることに苦しみ、またそうやって消費されることを推奨する大人たちの態度に傷つき、大きな違和感を持ちながらも生きていく彼ら。当時、「被災者と呼ばれたくない」と表明していた彼ら/彼女らの感覚が、生々しいまま、本作には表出しているのだ。

驚くべきことに、amazonのレビューに★ひとつが並んでいる。これは、荒削りな言葉で刻まれる生の感情の描写への違和感なのだろうか。

くどうは歌人でもあり、素晴らしいエッセイも書いている。

 水中では懺悔も口笛もあぶく やまめのようにきみはふりむく

このような素晴らしい歌を詠むくどうに、ファンはもっと別の種類の「言葉の力」を期待したのかもしれない。しかし、この「★1つ」こそが、著者が違和感を持つ震災の消費のされ方を象徴的するものでもあるようにも思う。

ぶっきらぼうにごろりと投げ出された、素直な生の言葉こそが、むしろ等身大の東北の若者たちの生々しい心情を浮かび上がらせている。そして何より、その文体によって、本作自体が美しい感動物語として消費されることに抗っていることも、忘れてはならないだろう。

実は、受賞作である石沢麻衣の『貝に続く場所にて』も震災を扱っている。冒頭から始まるドイツのゲッティンゲンという都市の描写は、まさに精緻で想像力あふれる「文学の言葉」を駆使したもので、実に美しく一読の価値がある。同じ震災をテーマにし、同じ雑誌(群像の4月号と6月号)で発表されながら、実に対照的な2作品である。ぜひ両方読んでみることをおすすめしたい。

『氷柱の声』くどうれいん著(講談社/1485円)
『貝に続く場所にて』石沢麻依著(講談社/1540円)