第36回 住友銀行の「ラストバンカー」、西川善文さんを悼む

西川善文さんが去る9月11日にお亡くなりになった。享年82歳。50代という若さで住友銀行頭取に就任し、さくら銀行との合併を決断。三井住友銀行の初代頭取となり、退いて後は日本郵政社長も務めた人物である。

今回は、その西川さんの思い出を認めてみたい(以下、敬称略とさせてください)。

『ラストバンカー』という著書もあるように、自他ともに認める「大物」だった西川だが、よくよく歴史を振り返ってみると、他人に誇れる「業績」がそれほどあるようには思えない。

さくら銀行との合併は確かに英断だったが、素地をつくったのは奥正之(当時、住友銀行常務。後に西川の後を継いで頭取となる)である。西川はいわば神輿に乗ったかたちにすぎない。

そんな西川だが、絶対に他人には真似できなかった「芸当」をやってのけたことは特筆に値する。

「不良債権処理」である。

バブルの後始末で、住友銀行にはとりわけ厄介な不良債権が山積みになっていた。

1991年にイトマン事件が発覚し、住友銀行から許永中・伊藤寿永光といった闇の人脈に5000億円を超える融資が流れ込んでいたことが明らかになった。

また、94年には住友銀行の名古屋支店長が眉間を撃ち抜かれて射殺される事件も起こっている。不良債権の後始末で大銀行の幹部が殺されるなどは、前代未聞のことだ。

住友銀行には「融資第三部」というセクションがあり、こうした「厄ネタ」を専門に管理・運用していた。西川はその融資第三部長として頭角をあらわす。

行内では「融三」と呼ばれる、この不良債権処理部隊の実態がどういうものだったか。当時の関係者が打ち明けてくれた、以下のエピソードだけでもおわかりいただけるだろう。

「娘の誕生日にね、自宅に花束が届くんです。差出人の名前もメッセージもない、ただの花束。こういうことが日々続くと、神経がやられてしまうんですよ」

西川はそういう仕事を長年にわたって続けてきた。反社会的勢力と話をつけなければならないときは、部下も連れずに単身で乗り込んでいったともいう。

人並み外れた度胸、行動力がないとできないことであり、不良債権処理に限って言えば、西川なくして軟着陸は不可能だっただろう。

この「融三案件」のリストを独自に入手し、不良債権の全貌をスクープしたことがある。

極秘中の極秘であり、住友銀行にとって最も知られたくない不良債権問題の「核心」だ。西川にインタビューを申し込んだところ、わずか数日で日程が決まった。数ヶ月かかるのが普通なので、銀行側も泡を喰ったのだろう。

インタビューでは、入手した「融三案件」のリストにのっとって質問を進めていった。すると、いきなり西川がキレたのである。

「さっきからリスト、リストって言ってるけど、本当にあるのかよ。あれば、ここに出してみろよ! ここにないもんを前提にして、しゃべれるかって!」

凄い勢いで怒鳴られ、正直言って一瞬怯んだ。なるほど、反社会的勢力を相手に回して一歩も退かない迫力とは、こういうものかと、妙に感心させられたものだ。

このインタビューには後日談がある。

ある立席パーティーの会場で西川を見かけたので、近づいていって「あの節はいろいろお騒がせしましたが、今後もよろしくお願いします」と仁義を切った。

すると、ゲンコツでこちらの胸を軽くポンポンとやって、「二度と見たくない顔だ」と言ったのである。本当の話である。

その時の西川の「案内役」が、たまたま住友銀行の知り合いだった(当時は部長だったが、後に副頭取にまでなった)。彼が真っ青な顔をして間に割って入り、「今日はここまでということで」と西川を連れていってしまった。

放っておくと、殴るところまであると思ったのかもしれない(こちらは殴られるまでの感じは、まるでしなかったが)。

さはさりながら、不思議に憎めないところもあった(ここまで書いておいて、それはないだろう、と言われるかもしれないが)。

西川が大のゴルフ好きで、しかも「イップス」だったということは、知る人ぞ知る話である。

ほんの数十センチ、目をつぶっても入る距離のパットが入らない。緊張のあまり手が動かなくなってしまうのだ。

度胸があるように見えて(ま、実際に度胸はあったわけだが)、意外に繊細なところもあったということだろう。

度胸だけで大銀行の頭取は務まらないから、意外でもなんでもないのかもしれないが、西川を知る者にとっては、やはり「意外」の印象は強い。

そんなこんなで、筆者も罵倒され、胸を小突かれたりしたものの、西川のことは決して嫌いではなかった(断じて好きとも言えなかったが)。

彼が日本郵政社長になったとき、改めてインタビューを申し込んだことがある。パーティー会場でのハプニングがあってからというもの、まったくのご無沙汰だったが、開口一番「ああ、きみだったのか」と言われた。

その日のインタビューは大過なく終わり、こちらの質問に対して、西川は常にも増して丁寧に答えてくれた。

日本郵政は旧郵政省であり、昔からの知り合いは山ほどいる。インタビュー記事が出てからしばらくして、「西川さん、(記事について)どう言ってる?」と数人に尋ねてみた。

「やられたな、って笑ってたよ」

記事の受け答えについて、間違ったことは何ひとつない。みんな俺が話したとおりに書いている。しかし、あいつが意図したように再構成されているから、俺にとっては不本意極まりない。と、そういうことだったらしい。

これは、記者にとっては最高の「褒め言葉」である。しかも、相手はあの西川さんだ。ちょっとうれしかったことは、いまでも憶えている。

同時に、なんとなく寂しく思ったのは、西川が「笑ってたよ」というくだりである。かつては、笑って済ませるような御仁ではなかった。

日本郵政は、労働組合や郵便局長会など、社長といえどもコントロールできないステークホルダーが何十万人もいる組織である。

銀行時代のようにキレたら灰皿を投げつける、というわけにはいかない(実際によく投げつけていたらしい)。

自らの意に沿わないことがあっても、隠忍自重して耐えるしかなかったのだろう。「笑ってたよ」と聞いて、そんな立場が思われてならなかった。

民主党への政権交代が実現し、西川は辞任に追い込まれる。

晩年は恵まれたものではなかったらしい。2013年に愛妻を亡くし、自身は認知症になってしまった。

年に何度か、三井住友銀行の本店を訪れ、「奥(正之・会長)、國部(毅・頭取)と会わせろ」と騒ぐこともあったと人伝に聞いた。

現役時代は心が休まる暇もなかっただろう。今は、ただ安らかに、と祈るのみである。

蛇足を連ねるようだが、懐かしの「罵倒インタビュー」から、心に残るくだりを紹介しよう。今思い出しても、笑ってしまうやり取りである。

「部下はみんな怖がってるみたいですね、西川さんのこと」

「どうしてですか?」

「バカって言うから」

「バカをバカって言ってなにが悪いんですか。バカなことを言わんでくださいよ」

やっぱり、ちょっとキュートなところがあったと改めて思う(笑)。西川さん、あの世で会っても殴らないでくださいね。