第50回 「すいません」の誤用・濫用で思い出した、週刊誌の校正・表記統一問題のこと

年の瀬である。コロナ騒動が一段落したことも手伝って、忘年会の予定がやたらめったら多い。かつては、これが「日常」だったはずなのだが、どうにもカラダには良くないですね。読者の皆様にも、ご自愛を。

そんな暮れの酒席で、つい先日こんな話を聞いた。お相手は、某金融機関のコンプライアンス担当役員である。

「すいません、っていうのが多くて。気になるんですよねぇ」

コンプライアンス担当役員は、各種法令・会社規定に基づく内部処罰の責任者でもある。そのため、社員から送られてくるメールの文面には「謝罪」の言葉が頻繁に出てくる関係上、「すいません、っていうのが多くて」となるわけだ。

言うまでもないことだが(いや、この場合はやはり「言わねばならないこと」なのだろう)、「すいません」はいけません。「すみません」である。「すみません」でも砕けすぎで、「申し訳ありません」とでもするべきだろう。

それにしても、なぜ「すみません」が「すいません」になるのだろうか。日常会話では確かに「すいません」となりがちだが、少し穿った見方をすれば、これは昨今の活字文化の変化に一因があるようにも思う。

その昔は、新聞でも雑誌でも「済みません」と表記したものだ。これを目で憶えていれば、決して「すいません」にはならないのではないだろうか。

最近では漢字を平仮名に置き換える傾向が大きい(新聞社や出版社の専門用語で「開く」という)。今書いているこの原稿にも、すでに「皆様」「頻繁」「砕けすぎ」「穿った」といった言葉が使われているが、これらは新聞・雑誌であれば、おそらくすべて平仮名で表記されることだろう。おっと、平仮名も「ひらがな」か。

最近の若者は漢字が読めない、書けないというけれども、世代の問題ではあるまい。新聞・雑誌が率先して、日本人の「漢字離れ」を促していると言ったら言い過ぎか。

それは、戦後このかた緩やかに続いてきた基調ではあろうけれど、21世紀に入ってから殊に顕著になってきたように感じる。

(今回はここまでが前置きで、ここから話は本題に入ります)

かつて筆者が働いていた編集部には、常時3~4人の校正者がいた。校正者の仕事としては、まず単純な誤字・脱字、言葉使いなどのチェックがあり、さらには事実確認にまで突っ込む。「2012年の東日本大震災」などと書くと、赤ペンで「2011年」と修正されてくる。専門用語で「アカを入れる」というのはここから来ているのですね。

週刊誌の記事は、普通の手順としては初校、再校と2回の校正をかける。まず、原稿を入れる。校正者がチェックする。それに記者がアカを入れる(初校)。再び校正者がチェックする。またまた記者がアカを入れる(再校)で一丁上がりだ。

新聞、雑誌の校正にはそれぞれに「表記統一」のルールがある。冒頭の「すみません」を例に取れば、「すみません」と「済みません」が同じ新聞、同じ雑誌で混用されるのは不都合なのでどちらかに統一するわけだ(「すいません」は論外である)。

表記統一に関しては、21世紀に入ったあたりから「済みません」が「すみません」に変わっていったような実感がある。大仰に表現すれば、「漢字ラッダイト運動」的な流れが急になってきたのだ(「ラッダイト」の解説は省略します)。

難しい漢字を使うことが読者にとって不親切だという配慮が働いているのだろうが、余計なお世話である(あくまで、個人的見解です)。「頻繁」を「ひんぱん」と開かれると、かえって馬鹿にされているような気がするくらいだ(もちろん、個人的見解です)。

こんな「個人的見解」があるものだから、校正さんにはずいぶん迷惑をかけた。「正しく」と書くと「まさしく」と修正されてくる。いや、これは「ただしく」なんですとアカを入れて「正しく」に戻すと、「ただしく」になって返ってくる。それをまた「正しく」に直して、みたいなバトルは毎週のようにあった。

そもそもね、記者なら誰しもそれぞれの「語感」があると思うわけですよ。「断わる」が「断る」と表記されるのは、個人的には我慢がならない。「断る」は「わ」を送らないと「断わった」気がしない、とか(なぜそうなるのかは説明できない、説明できないことがいわゆる「語感」の所以ではないかとも思う)。

あえて乱暴なことを申し上げれば、雑誌には表記統一などは要らないのではないか。それぞれの記者の「語感」がそれぞれの記事に反映されればこそ、雑誌全体としてのオリジナリティ、面白さも出てこようというものだ。

表記統一に関しては、校正さんには迷惑をかけたし、筆者も不便をこうむった(「被った」と書かないのは「かぶった」と読まれてしまいそうだからであり、これもまた「語感」である)。だから、ここでもう一度はっきり言おう。表記統一は、雑誌にとっては無粋なものであり、角を矯めて牛を殺すようなものであると。

(以上、「正しく」個人的見解です)