経済雑誌の特異なところは、「広告を出す大企業」に対して「批判的な記事を書く」ことにある。

「クライアント」という言葉通り、広告を出してくれる会社は「お客さん」だ。そのお客さんを攻撃するのだから、長いこと記者をやってきてこんなことを言うのもどうかと思うが、土台が話にならない。

Car雑誌は広告を出してくれる会社のクルマの悪口を書いたりはしない。パソコン雑誌も然りである。どんな雑誌でもクライアントの気に障ることは書かない。当たり前のことだが、書けば広告がストップするからだ。

経済雑誌の場合、売上高の半分を広告で稼いでいる(今はどうか知らない、かつてはそうだった)。あらゆる雑誌の中でも広告の比重は低いが、それでも「半分」は大きい。クライアントに総スカンを食らえば、売上高が半減しても本来不思議はないのである。

経済雑誌の記事は、とかく「批判」に流れやすい。会社の美点を発掘するより、アラを探すほうが簡単であり、読者も「スキャンダル」を読みたがるものだ。

新潮社の天皇と呼ばれた斎藤十一はフォーカス創刊にあたって、「おまえら、”人殺し”の顔を見たくないのか?」と部下にうそぶいたそうだが、けだし名言である。「人の不幸は蜜の味」であり、経済雑誌の商売のタネでもある。

いきおい誌面も批判記事が目白押しになるわけだが、四半世紀近くこんな仕事をやってきて、実際に広告が止まったことは、今数えても片手の指で足りるくらいしかない(筆者の与り知らないところで止まっていたのかもしれないが)。

「止めるぞ」と脅かされるのは年中行事である。が、ギリギリのところで妥協し、なぁなぁで済ませてしまう。

「止めるぞ」と脅かしてくる常習犯も、ここには名前を記さないが、何社もある。先様からすれば、こちらが「常習犯」ということなのだろう。それでも、最後は「止める」ところまでには至らない。「寸止め」で手を打つのが常だった。

企業側の窓口は、通常は「広報部」と「宣伝部」に分かれている。それも、なぁなぁで済んでしまう理由のひとつだったろう。

取材対応は広報部の担当であり、広報部は掲載記事に対する抗議はしても「広告を止める」とは、まず言わない。広告を出しているのは宣伝部であり、宣伝部が出版社の広告部に対してクレームをつけてくる。

当然のように広告部から編集部に対して苦情が持ち込まれるが、記者にとっては直接的なイチャモンではないこともあって、平気の平左だ。

止めるって言うなら、それでいいじゃないか。しくじったなら、新規開拓しろよ。というのが編集部のホンネである。しくじったのは、編集部なのに(笑)。いや、これは笑えないな。

編集部は「広告部の努力が足りない」と切って捨て、広告部は「編集部の配慮が足りない」と不平を鳴らす。

出版社ならどこでも同じだろうが、編集部と広告部では力関係がまるで違う。編集部が圧倒的な優位にあるため、クライアントと編集部の板挟みになった広告部は切歯扼腕するしかない。筆者などは、クライアントのみならず身内からも百万回くらいは五寸釘を打たれていると思う。

なぁなぁで済んでしまうもうひとつの理由は、書く側の編集部、書かれる側の企業それぞれの「オトナの度量」だ。

書く側からすれば、徹底的に相手を追い詰めることはしない「度量」。書かれる側からすれば、そうである以上は広告を止めるまではしない「度量」である。

度量と言えば聞こえはいいが、実質は「馴れ合い」そのものであり、ジャーナリズムの本道から著しく逸脱していることは認めなければならない。そうは言っても、おたがいがガチになって殴り合えば、こちらのおまんま食い上げになってしまう。

情報誌の『ファクタ』や、その昔に一世を風靡した『噂の真相』などには、企業広告はほとんど入っていない。いつどんな会社を攻撃することになるか知れたものではないから、「入れられない」のだ。

そこまでの覚悟があるから、訴訟上等で徹底的に大企業をぶっ叩くことができる。「一流」とされている経済雑誌には、ビジネスモデルの成り立ちからしてそこまでの覚悟はないし、求められてもいない。

筆者は「全身ジャーナリスト」というタイプではなく、ひと言で言えばチャランポランな質だから、それが悪いというつもりはない。取り立てて後悔もしていない。ただ、「そういうものなのだ」と言うしかない。

アウトサイダーの視点から見れば、このあたりは何ともわかりにくいし、説明しづらい機微ではあるのだけれど。

さはさりながら、広告部からは毎度のように「クライアントをあまり悪く書かないでくれ」と釘を刺されるものだから、編集部も無視するわけにはいかない。

週に一度の編集会議(編集長と副編集長が記事企画を決定する)では、毎回記事と広告の「同載」がチェックされていた。

良い記事、悪い記事を問わず、同じ企業の「記事」と「広告」が同じ号に載ってしまうのはよろしくないのである。悪い記事は言わずもがなだが、良い記事についても「広告を貰っているから好意的なのだろう」という誤解を招く。

ところが、毎週のように広告を出している企業も1社や2社ではない。「あ、今週も広告入ってるね」で企画がずっとボツになり、「こんなていたらくじゃ、いつまでたっても記事なんか書けないじゃないですか」と怒った記者もいた。

そんなこんなで、最後には「ま、しゃあないか」となる。広告の掲載予定をずらし(もちろん、広告部に泣いてもらうのである。掲載予定の変更を先方に掛け合うのは広告部であるからして)、同載を避けて批判的な記事を出す。

どうにもロクなもんじゃないなと改めて思う次第だが、今では事情がだいぶ変わっているかもしれない。

企業の財布の紐が固くなり、雑誌の広告収入は激減しているとも漏れ聞く。批判的な記事など書こうものなら、問答無用で広告が止まる時代になっていても不思議はない。

記事と広告についてここに書いたことは、わかりやすくするために思い切って単純化している。「馴れ合い」を正当化しようとすれば、ナンダカンダと理屈はつくのだが、話がとてもややこしくなる。今となっては言わぬが花であろう。

かつて付き合いの深い社長連中からは、「悪口を書かれたうえに、なぜ広告を出さなければならんのだ」とよくお叱りを受けた。そのたびに「なぁなぁ」で済ませてきたが、御説ごもっともでありました。と、日記には書いておこう。

蛇足:
ほぼ50年前のテレビコマーシャルだが、今でも「日記には書いておこう」が日常会話の端々で出てしまう。時は過ぎても傑作は傑作である。