第82回 元八千代銀行頭取の訃報で思い出した、「きらぼし銀行」誕生を10年遅らせた(かもしれない)「頂上会食」
「酒井勲氏が死去 元八千代銀行(現きらぼし銀行)頭取」(7月24日の日本経済新聞朝刊)という訃報を目にしたので、今回も一寸した裏話を披露しよう。
酒井さんとは、実のところ3~4回くらいしかお目にかかったことがない。それでも、初対面の印象は強く残っている。
1時間話しただけで、相当に頭が切れるなと感心させられた。もっとも、大手銀行には酒井さんクラスの人材は珍しくない。珍しかったのは、酒井さんが「八千代銀行」の常務(当時)だったことだ。
失礼を承知で言わせてもらえれば、八千代銀行というのは「信用金庫あがり」の第二地方銀行である(1991年に信用金庫から普通銀行に転換した)。
そんな金融機関に、金融庁と対等に渡り合えるような人材は、滅多にいない。「このひとは、いずれ頭取になるだろうな」と思った。事実、2010年に頭取になった。
筆者が会社を辞めたのがちょうど2010年であり、その頃にはまったく付き合いはなかったのだけれど。
八千代銀行といえば、90年代後半から東京都民銀行との再編が噂されていた。両者とも東京地盤の地銀・第二地銀であり、しかも営業エリアがおおむね重なっていないため、理想の組み合わせと思われたのだ。
当時の東京都民銀行頭取・西澤宏繁さんとは親しくさせていただいていたので、八千代銀行との合併に関しては何度も探りを入れた経緯もある。
そんなことから、西澤さんに「一度、八千代の頭取を誘って一杯やりましょうよ」と会食をセットしたことがあった。
「八千代の頭取」には会ったことも見たこともなかったが、西澤さんの名前を出せば乗ってくるだろうと踏んだのである。
「藤山智昭頭取」(ごめんなさい。検索をかけて、ようやくお名前を思い出しました)は、案の定乗ってきた。
西澤さんも藤山さんも2004年まで頭取を務めたので、おそらく2000年代初頭のことだろう。
こんな会食では、もちろん「合併」の話題は「が」の字も出ない。世間話を通じて、さりげなく互いの腹を探り合う。
だいぶお酒も入ったところで、藤山さんがサイフから1枚の写真を取り出した。上海の東方明珠電視塔(テレビ塔)を中心とした街の夜景が映っている。
「こないだ出張に行ったときに撮ったんですわ。(取引先でもある)歌舞伎町のチャイナパブで見せると、(中国人の)ホステス連中が喜んでねえ」と藤山さんが言った。八千代銀行の本店は新宿にあり、歌舞伎町はいわば裏庭である。
西澤さんは「ほお」と妙に感心した様子だったが、会食直後にふたりきりになったとき、「あれ(八千代との合併)は時間がかかるねえ」と問わず語りに漏らしたものだ。
地銀である東京都民銀行は、八千代銀行より格上である。はなからそういう意識があるうえに、「取引先のチャイナパブ」と聞いて社風のあまりの違いに面食らったのだろう。
東京都民銀行は旧日本興業銀行と関係が深く、西澤さん自身も興銀から送り込まれてきた。
したがって、「東京都民銀行と八千代銀行」という社格以上に、押しも押されもせぬ興銀マンとしてのプライド、見識もある。
西澤さんは京大出身で(というのも、本稿を書くにあたって検索してみて初めて知った。興銀のキーパーソンはたいがい東大出身なので、大学はどちらですかみたいな話はほとんどしないという事情もある)、したがって興銀では傍流である。
天下国家を論じるが、手足は動かさない。という興銀の社風にあって、西澤さんは異端の「営業マン」でもあった。
筆者の仲人は興銀系列の証券会社役員で、興銀のエリート臭を「クサイクサイ」と言って馬鹿にしていたが、西澤さんに関する限りはベタ褒めだった。西澤さんも仲人のことをニックネームで呼んでいて、かなり親しく付き合っていたらしい。
そんな西澤さんにしてからも、藤山さんとの会食は「未知との遭遇」ということだったのだろう(笑)。
東京都民銀行と八千代銀行が統合交渉に入ったと報じられたのが2013年。会食から10年以上はたっていた。
その間、東京都民銀行では頭取が2回代わり、八千代銀行では酒井さんが頭取になっていた。「時間がかかるねえ」とこぼした西澤さんのひとことが思い出されたものだ。
2018年には、東京都民銀行・八千代銀行・新銀行東京が合併して「きらぼし銀行」が発足したが、いまだにどうもピンとこない。
逆に、東京都民銀行とか八千代銀行とか言われても、何のことやらわからないという方々も多かろう。
信用金庫出身には珍しいエリートだった酒井さん。エリート揃いの興銀にあって、現場重視の異端児だった西澤さん。興味深いコントラストを有するふたりが同時代に頭取であったならば、もっと早くに合併は実現したに違いない。
あんな会食なんかセットしなけりゃよかったな、と酒井さんの訃報に接して、しみじみ思ったことである。