第46回 夏休みの宿題

夏の高校野球もいよいよ決勝。
さてどちらが優勝旗を手にするのでしょう。
(たぶん結果はわかってますよね?)

甲子園の高校野球が幕を下ろすと夏の終わりを感じます。
まだまだ暑いのですが、これは残暑ザンショ。というつまらないオヤジギャグすら愛おしい夏の終わりです(なんのこっちゃ)。

子供の頃は、夏の終わりは夏休みの終わりと同時でした。

虫取り網を片手に、毎日を面白く過ごすことだけに熱中していた小学生の頃の夏休み。

少し屈折して図書館と市民プールの水中に潜んでいた中学生の夏休み。

夏季セミナーに出かける振りをして名画座や雀荘に足を運んだ高校生の夏休み。

どの夏休みにも必ず終わりが来て、その時はじめて気づく手つかずの宿題の山(カツオか!?)。

実際は気づいていたけど、見て見ぬふりの先送り。
(ま、今もその延長線上にいるわけですが。私も○○も。・・・○○に適当な漢字をあてはめて愉しんでください)

小学校の頃の宿題は、夏休み帳(国算社理の四教科を一日一ページづつ勉強するドリル形式の冊子)、絵日記あるいは観察日記、自由研究などでした。

夏休み帳は、夏休みの計画を作るときに事前に渡されるので、その日から夏休みが始まる日までに終わらせるのが、我々のやり方でした。
(「我々」って、誰だ??とにかく友達と協力して夏休み前に終わらせていたのでした)

問題となる宿題は、毎日コツコツとやらなきゃいけない日記系と何をやっていいのかわからない自由研究でした。

日記については誰でも困った記憶があるはずです。
まず第一に、人に見せる日記を書く不自然な感じ。これは小学生にだってわかります。

毎日の出来事に自分の本当の気持ちを加味しながら書きたいのですが、さすがに「7月25日曇り夏休みが始まってうれしいな。でも、こんな日記の宿題なんか出しやがって、○△先生のバカ!アホ!百貫デブ!お前の母ちゃんデベソ!!」とは書けません。
(注:日記内に不適切な表現がありますが、時代背景・設定を尊重して原文のまま掲載させていただきました)

可能な限り、脚色して見栄を張りつつ、日記を「作る」ことになってしまいます。

「7月30日晴れきょうはフランスに住んでいる伯母様から小包が届きました。中にはイブサンローランの鉛筆と消しゴムと鉛筆サックが入ってました。

同封の手紙で、ニース避暑のお誘いもありましたが、朝顔の観察とラジオ体操があるので、断ることにしました。

でも、一泊ぐらいは行ってもいいかなと、まだ迷っています」みたいな日記は明らかに出鱈目です。さすがの○△先生も気づくに違いありません。

現実には日記に書きたくなるような事件や出来事が毎日都合良く起こるわけもなくて、結局は個性のない無味乾燥な日記を書くことになるのです。

「8月1日晴れきょうは天気がよくて、暑かったです」
「8月2日晴れきょうは暑くて、天気がよかったです」
「8月3日晴れきょうも暑いです。夏ですから」

と、毎日書くのですが、つまらないので方針変更することになります。

「8月4日晴れきょうは、海の向こうから入道雲がモクモクとわき上がってきたので、その入道雲の根元が見たくてなって、海に向かいました。浜辺につくと、子供たちにいじめられているウミガメがいたので、助けてあげました。

ウミガメは助けたお礼に海の中のお城に連れて行ってくれました。
そのお城ではお姫様が踊りを踊ったり、マッサージをしてくれたりしました。

気持ちが良いので、夏休み中はそこで過ごそうと密かに思いました。
ところが、それを察したお姫様が急に怒り出して「早く帰って。もう二度と来ないで」と言って、追い出されてしまいました。

浜辺まで送ってくれたウミガメがお姫様の心変わりを申し訳なく思ったのか、お土産をくれました。

いわゆるひとつの玉手箱です。
ウミガメへの挨拶もそこそこに、急いで玉手箱を開けてみました。
中からモクモクと煙が出てきて入道雲になりました。
入道雲はこうしてできるんだとわかりました。・・・・・・という、夢をみました」

「8月5日朝きょうは夢をみませんでした」
「8月6日朝きょうも夢を・・・」

という感じで夏休みの終わりまで夢日記をしたためて、○△先生に提出したのでした。

そのときの先生の反応は残念ながら覚えていません。
でも、きっとよくない反応だったのでしょう。これ以降、夢日記を書くことはありませんでした。

もし、先生にスポイルされることなく、夢日記を続けていたら、『春の雪』(三島由紀夫著)の主人公松枝清顕のように転生も可能だったかもしれませんが、あとの祭なのでした。

クラス全体で観察日記をつけたこともありました。

一学期の家庭科の授業で種まきをした大豆と茄子とキャベツを、夏休みの間は順番で水やりをしながら、その日の当番が観察日記をつけるのです。

私の当番はお盆の頃でした。

学校の裏手にある畑にジョウロを持って行ってみると、大豆と茄子はそれなりに育ち、小さな実をつけていました。
大豆と茄子に水をやってから、隣のキャベツ畑の方に向かいました。

すると、なんということでしょう。
キャベツと思われる緑の物体はスカスカしたクキの固まりになっていました。

どうやらキャベツの葉は青虫に喰われたようです。まだ数匹の青虫がその茎を美味しそうに囓っているのでした。

子供心にも、なんだか見ちゃいけないものを見てしまった、大人の秘密を垣間見たような後ろめたい気持ちになったのでした。

さらに驚くべき事に、観察日記を見ると昨日の当番K子さんが書いたキャベツの絵は、丸々として立派で、わずかな虫喰いの痕もありません。

その前の日のM男くんも、そのまた前の日のS子さんもみんな緑色と黄色のクレヨンを使ってキレイにキャベツを書いています。

仕方がないので、私も八百屋さんの店頭に並んでいるようなキレイで立派なキャベツの絵を書いて、次の当番H子さんに「不幸の日記」のバトンを渡したのでした。

以上、子どもに日記の宿題を出すことは、教育上よろしくないという事例です。

日記と同じく宿題に適さないものとして読書感想文というのがあります。

なぜ宿題に適さないかというと、本を読んで感じたことを他人に話すと言う行為は、文筆業を生業としている人は別にして、ごく普通の一般人にとっては非常に恥ずかしい行為だからです。

例えて言うなら、満員電車に全裸で乗り込むようなものです(あ、全裸じゃ改札を通してくれないか。って、問題はそこじゃないし)。そのくらい読書は個人的な秘めたる行為なのです。

にも拘わらず、読書感想文を宿題にするのは、読み手(生徒)の深層心理や秘密を探り、コントロールするための取っ掛かりを見つけようという出題者の恐るべき深謀遠慮なのです(誇張ではありません。妄想です)。

こんな宿題を出す横暴な教育者には、偽の読書感想文で対抗しましょう。
自分の真意を悟られないためです。真意はしっかり隠さなければいけません。
世阿弥も「秘するが花」と言っています(関係ないか)。

完全に読書の感想を秘匿するための極意はただ一つです。
それは課題図書を読まないことです。読まずに感想文を書くのです。
どうせ宿題を出した先生だって、まともに読んじゃいません(ホントか?)。

課題図書の題名と目次を見る。
本の装丁を眺める。
ページ数を確認する。
値段を見る。
バーコードをコピーしてバーコードバトラーで強さを調べてみる(これは関係ないか)。

等々で、本の中味を想像して感想文を書けばいいのです。

これで先生には深層心理は探られることはありません。
但し、他の生徒の感想文とあまりにも内容が違うので、別な意味でマークをされるかもしれませんが。

実際、私は高校二年のとき、世界史(!)の宿題で出された『静かなドン』(ロシアのショーロホフ著のほうです。新田たつおのコミック『静かなるドン』じゃないです)の感想文でこの技を実践しています。

新潮文庫で全8冊の分量のうち、4冊まで読んで感想文を書くという中途半端なことをしてみたのです。

要は夏休みの最後の3日でこの宿題をやろうとして間に合わなかっただけのことなのですが・・・。

もちろん先生からいただいた評価も中途半端なものでした。。。今となっては、懐かしい夏の想い出です。

続いて、自由研究という宿題についても考えてみたかったのですが、自分自身まともに自由研究をした記憶がありません。

なぜ、自由研究をしなかったのかというと何をやっていいかわからなかったからです。

先生から「夏休みは時間がたくさんありますから自由研究をしましょうね」と言われた瞬間に「自由」は宿題という体制に組み込まれて、もはや「自由」ではありません。

たいていの生徒は、昆虫採集をしたり、朝顔の観察をしたり、裏工作をしたり、両親の夫婦喧嘩の回数と原因を調べたり、というごくありふれた「自由研究」をすることになります。

私自身は、小学生高学年から中学生のころの夏休みは、毎年「自由研究」における本当の「自由」とは何かという「自由研究」の真似事をしましたが、結局、夜の校舎の窓ガラスに落書きをしたり、借りた自転車で暴走したりする程度の誰かが考えた「自由」をなぞるだけで、独自の結論を出すことができず「不自由研究」となってしまい、そのままどこかに置き去りにしたのでした。。。

あの頃の夏休みからウン十年近く過ぎてしまいました。

つい最近、某衛星放送で「ウルトラマン」全39話を毎日5話づつ放映していました。

子どもの頃にほぼ全話を見ていて内容を覚えていたはずですが、実際に今見ると、記憶と違っているのです。

なによりも気になったのが、ウルトラマンは毎回怪獣を倒していたわけではないのです。

科学特捜隊が倒したり、宇宙人が逃げちゃったり、怪獣が自然消滅したり、ウルトラマンが怪獣を宇宙のどこかに置いてきたり、と様々なのです。

怪獣や映像にも発見がありました。怪獣の着ぐるみが映画のゴジラ、ウルトラQのペギラやガラモンの使い回しだったり、石油コンビナートが破壊される場面などの特撮部分が複数話で使い回しされていたりするのです。

そんなこんなでウルトラマンを見ていたら、今になって、ようやく「自由研究」ができそうな気がしてきました。

自由研究の表題は『ウルトラマンの傾向と対策』です。
次回乞うご期待です。

大人の夏休みの宿題に期限はないんだなぁ・・・み○を

201208_f

中年探偵団バックナンバー