第53回 みずほの生みの親が名刺に書いてくれた「一筆」、西村正雄・日本興業銀行頭取の記憶

取材を通じて頂戴した、何万枚とある名刺の中に、かなり特殊で特別なものが2枚だけある。1990年代の未曾有の金融危機を乗り切った体験を、いつか回顧録として1冊の本にしたい、書かせてほしい。と酒席でお願いし、無理くりに「承知」の一筆を入れてもらったものだ。

第一勧業銀行、富士銀行との3行統合を決断し、みずほフィナンシャルグループの生みの親となった日本興業銀行の西村正雄頭取は、「俺はサッサと隠退して、好きなピアノを弾いて暮らすからさ。そのときな。今はダメだ」と笑いながら、自らの名刺に「回顧録の件、承知します」と書いてくれた。

2002年のシステム障害で引責辞任した西村さんは、そのわずか4年後に他界する。享年74歳。早すぎる死だった。果たされなかった約束が残念でならない。

3行統合が発表される少し前に呑んだとき、「生き残るためには、”興銀”の名前だって捨てる」とおっしゃっていたのが今でも印象に残っている。

「長期信用銀行」という業態は、すでに歴史的使命を終え、長信銀3行は構造的な窮地に陥っていた。単独で生き残る術はなく、日本長期信用銀行は一時国有化され、日本債券信用銀行も経営破綻した。拱手傍観していれば、さしもの興銀といえども同じ運命をたどることは免れなかったろう。

西村さんは先陣を切って、国の公的資金注入に同意を示し、大手銀行の中でどこよりも早く大再編に打って出た。あれだけの修羅場を見事にくぐり抜けた時々の決断については、是非にでも詳しく聞いてみたかった。

西村さんに関しては、忘れられない思い出がいくつもある。

3行統合発表から半年もたったころだろうか。旧知の大企業社長から「西村さんに聞いておきたいことがあるんだけど」と連絡を受け、会食を設定したことがあった。

こんなとき、「何を聞きたいんですか」とは質さないし、西村さんにも「何か聞いておきたいことがあるみたいですよ」ともわざわざ言わない。だから、筆者も西村さんも当日まで何が主題なのかわからない。単なる「懇親」である。

と思ってやってきたであろう西村さんに、かの社長さんがいきなり浴びせかけた一言が「興銀はうちの株は売らないでしょうね?」だったから、あたしゃ仰け反りましたね。西村さんも、さぞ面食らったに違いない。お天気の話もプロ野球の話もない。開口一番、ど真ん中の直球である(「ビーンボール」と言ったほうが近いかもしれないが)。

この大企業のメインバンクは富士銀行である。したがって3行統合にあたって富士が持ち株を売ることはありえない。ところが、一勧が早々に売却してしまったので、怒り心頭に発した社長さんが「ブルータスお前もか」となったわけだ。

社長さんにも驚かされたが、西村さんにはもっと驚かされた。ほとんど間髪を入れずに、「うちは売りません」と言い切ったのである。持ち株調整などというものは、事務方が綿密な調整をしたうえで、初めて決まるものだ。「売らない」と言っておいて、後で「ごめんなさい」は通用しないのである。よほどの胆力がないと、この一言は出てこない。

後日、「よくぞ売らないって即答できましたね」と訊いたところ、「あの会社の株価はまだまだ上がるよ。急いで売る法はない」。一勧に対する当てこすりも多分にあったろう。

余談だが、会食のお店は「鰻屋」だった。話を持ちかけてきた社長さんが大の鰻好きだったからで、当時よく使っていた家を予約した。

「今日(の会食相手)は、どちら様で?」と主人に訊かれたので名前を申し上げたところ、「あ、西村さんですか。じゃ、部屋変えましょう」と言われ、ずっと狭い一室に通された。アップグレードならぬダウングレードだ。

「あの方は腰を悪くされてるんで、掘りごたつじゃないと按配よくないんですよ。掘りごたつはこの部屋だけでして」と主人。なるほど、高級料理店の心遣いとはこういうものかと妙に感心させられたものである。

閑話休題。

西村さんは、故・安倍晋太郎の異父弟である。つまり、安倍晋三にとっては実の叔父さんにあたるわけで、よくかわいがってもいたし、話題にも出た。きわどい話もずいぶん聞いたが、もちろんここには書けない(笑)。

ひとつだけ披露すれば、西村さんは、金融担当大臣を務めた竹中平蔵を蛇蝎のように嫌っていた。そこで、当時は官房副長官・官房長官だった安倍晋三に対して、「竹中を切れ」と何度も示唆した形跡がある。しかしながら小泉政権において竹中は重用され続け、これが叔父・甥の関係に溝ができる一因となったことは想像に難くない。

総理大臣になった甥を見ることなくお亡くなりになったわけだが、安倍長期政権について、いかなる評価をしたものか。ご存命であったなら、聞いてみたかった気もする。

最後に。

西村さんが引責辞任する引き金となり、現在まで問題を引きずるシステム障害について、「興銀に責任がある」という趣旨の記事を書いたことがあった。

このときは、懇意にしていた副部長がすっ飛んできて、「記事を差し止めにしてほしい」という談判に及んだ。そんなことできるわけがないと突っぱねると、「西村からどうしても止めろ、と言われて来てるんです。手ぶらでは帰れません」。押し問答の末、記事は一文一句変えずに掲載したが、そうなるとこの副部長の顔が立たない。こちらも苦しかった。

幸いなことに今に至るまでお付き合いは続いているが、このときはこれまでかと思ったものだ。自ら電話をかけてくるのでなく、筆者と親しい第三者を通じて圧力をかけてくるあたり、西村さんも芸が細かい、というか人が悪い。もっとも、名経営者と称えられる人物の中に、単なるお人好しなどはいないわけだが。

こんなことを思い出すとキリがない。ふっと気づいてみれば、最初から最後まで西村さんの話になってしまった。次回こそは、みずほ統合問題について筆のおもむくままに書き連ねることにしたい。乗りかかった船である。