第80回 並外れた度胸で金融危機を乗り切った名経営者、三井住友信託・田辺和夫さんの思い出あれやこれや

2年ほど前に、このメルマガで『マージャンを通じて深まった人間関係。銀行・証券の「雀豪列伝」』というお話を書いた。

銀行界における雀豪を3人紹介したのだが、その中で最も親しくお付き合いいただいた田辺和夫・元三井住友トラスト・ホールディングス社長が亡くなった。

「田辺さんについては、他日に改めて記す折りもあろう。」と認めたこともあり、今回は田辺さんの思い出を掘り起こし、追悼の意を表したい。

田辺さんとの付き合いが何年になるのか、もう思い出せないほど長い。前身の三井信託銀行時代に、彼の「腹心」と親しくしていた関係で、間を取り持ってもらったのが、きっかけである。

いまはもうない神楽坂の有名な鴨料理屋でご馳走になった。雀豪であると同時に、斗酒なお辞さない酒豪でもあったから、3人で痛飲した(彼の腹心もまた酒豪で、旧三井信託のキーパーソンはたいがい酒が強かった)

旧三井信託は、バブル崩壊によって大手銀行の中では真っ先に不良債権危機に直面し、「倒産やむなし」との噂がたったことさえある。

ところが、有力な幹部連中は口を揃えて、「タナベがいる限り、うちの銀行はそう簡単には潰れない」と言っていたものだ。あたかも「田辺大明神」であり、カリスマ的な求心力に驚かされた記憶がある。

大手銀行に対する公的資金一斉注入にあたって、旧大蔵省は「三井信託に対しては、(同じ三井系の)さくら銀行(現・三井住友銀行)経由でしか認めない」という意向を内々に示していた。

このとき、同じように都銀との再編を迫られた東洋信託銀行(現・三菱UFJ信託銀行)は、親密先の三和銀行(現・三菱UFJ銀行。ややこしいな、説明が)の軍門に降っている。公的資金なくしては潰れるしかないから、背に腹は代えられない。

そこで、田辺さんは思わぬ奇手に打って出る。はるか格下の中央信託銀行と経営統合し、旧大蔵省をも驚かせたのである。

当時、田辺さんはまだ常務だったが、すでに実質的には「社長」であり、中央との統合交渉も、前面に立って取りまとめた。

社格から言えば、「三井中央信託」となるところ新社名は「中央三井信託」となった。社名だけではない。存続会社も初代社長も、すべて中央信託に譲ったのは、田辺さんの決断によるものである。

中央との経営統合は、さくら銀行に呑み込まれずに公的資金を引き出すための、いわば「緊急避難」であって、独自路線で生き残るための執念を強く感じさせたものだ。

中央は、北海道拓殖銀行(98年に経営破綻)が本州地区に抱えていた59支店を継承していたが、いずれも立地が悪く採算性も低かった。旧拓銀店舗が、新銀行の最初の重荷になった。

田辺さんの自宅の最寄り駅は「つつじヶ丘」で、駅前には件の旧拓銀店舗があったそうだ。「広くてゆったりしてるし、お客さんも少ないし、とってもいいお店よ」と奥方に言われ、「そんな店ばかりだからダメなんだ」と激怒したという。

社長でもないのに、旧拓銀店舗のリストラに乗り出し、わずか数年でほとんどを閉鎖するという剛腕を見せつけた。

「月夜の晩に、(中央の社員から)刺されないように気をつけてくださいよ」と酒席で申し上げたことがある。そのくらい、鬼気迫るものがあった。

余談だが、つつじヶ丘に自宅を買ったのは、「府中競馬場に近いから」という理由であり、大の競馬ファンでもあった。社長になってからも、競馬場でよく見かけるようなジャンパー姿で、開催日に通っていたらしい。

中央信託との経営統合は、繰り返しになるが「緊急避難」であり、そのころから業界再編の青写真を描いていた。

「いっしょになるなら、さくら銀行か住友信託銀行のどちらかしかあり得ない」と口癖のように言っていたものだ。

本心としては、「三菱・住友・三井」の信託大合同が理想だったのだろう。しかし、三菱信託は2001年に東京三菱銀行(現・三菱UFJ銀行。くどいな、本当に)との経営統合に走ったため、大手信託は中央三井と住友しか残されていなかった。

信託業界のトップだった三菱信託は、経営統合の後には東京三菱に主導権を握られ、自立色を失ってしまう。

この体たらくを目の当たりにした田辺さんは、「さくら銀行と住友信託銀行」と口先では言いながら、意中では「住友信託」一本に絞っていたのは間違いない。

しかしながら、公的資金返済に苦慮していた中央三井との経営統合に対して、住友信託は一貫して慎重な姿勢を崩さなかった。

いっかな誘いの手に乗ってこない住友信託に苛立った田辺さんは、意図的に「さくら銀行」の名前をちらつかせ、テキを釣ろうとした。このあたりの駆け引きも見事だったと思う。

考え方が合理的で、胆力も実行力もずば抜けていた。それでいて近寄りがたいところがなく、酒を呑むとホンネがずばずば飛び出した。社内はもちろん、取引先にも田辺シンパが多かったのはうなづけるところだ。

ラーメンが大好きで、社長になってからも、昼どきになると一人で出かけては、新しい店の食べ歩きを楽しみにしていた。「気を遣わせるから」と部下はいっさい誘わず、社用車も使わなかった。

方向オンチという意外な一面もあって、「ラーメン屋からの帰りに道に迷って呆然としていた」という目撃談を聞いたときには、思わず笑ってしまったものだ。

近年では、脚を悪くし、また病気で「瞼が開かない」という話も仄聞していたことから、かなり長いことご無沙汰してしまっていた。最後に、もう一度、美味し酒を酌み交わすことができなかったのが本当に口惜しい。

度胸と決断で金融危機という地獄を乗り切り、5大銀行の一角を占める三井住友信託銀行を築いた名経営者に対して、改めて敬意を表します。田辺さん、本当におつかれさまでした。どうぞ、安らかに。